適当に書く場所

公開の日記

焦土作戦

全部妄想だった気もするけど、ここまでくるとそうではないだろうからひたすら絶望感と失意で内臓が捩れるような感覚になる。

 

ある意味異常事態が続いていて、その中心に自分がいて、高まる期待か恐怖か、何かの特異な感情が広く波及して、そのことで集団狂気としか言いようのないものがいくらか生まれているように感じたので、こちらから率先して作業データや、発言や振る舞い含めた「可愛げ」を破壊しなければならない。

今思えば、これこそ「権威」の極みでもあり、それを内側から率先して爆破していくこと抜きには、それだけならただの否定的な権力者でしかなく、その窮乏感と苦痛が、こちらの行動の全てをネガティブなものにする、それはある程度必要だから開き直っていたものの、過度になれば(この場合は匙加減が一番大事になるかと思った)集団狂気の挙句に、レイシズムパラノイアファシストとほぼ変わらない論調を平然と、公的な新聞社などが堂々と掲載するようになったように思えるので、何度率先して自分に属するものを破壊していかないといけないのか、と思う。

 

これでは何もできないけど、それで「本当に」何も出来なくなっていることを、どうも理解していないようなので、こちらに投射する感情や見方が何だったのかに気付くまで、その帰結を何度でも示してやるべきなのかもしれない。それを変えずに何を変えるつもりだったのか、と言いたくなるようなものが多すぎる。

 

 

紆余曲折の挙句、自分が天使であることは自意識としては、また恐らくある程度公的な周知としては広まった感触がある。それすら不可触であることに変わりはないけど。他方で、これがただの「妄想」であること、そして言うなれば、そうした「宗教妄想」をある程度気力や能動性の根拠として用いる、という元々の姿勢に戻る必要がある。

その際には、別に給与を貰ってるわけでも側近がいるわけでも他の何かが保証されてるわけでもない自分が、なぜかいつの間にか「他の権力者や権威をもつ存在」と、扱い方としては似たものになると思われているようなら、何度でもこちらからその扱いそのものを破壊してやる必要がある、何度でも、何度でも。

その度に無能力になり、自分や他の何かにとって何が失われてきたのか、この一連の出来事の連鎖によって何が喪失されてきたのか、そのことを二度と忘れられないぐらいに「覚え」させてやる必要すらある、それ抜きで何を変えるつもりだったのか、と言いたくなるようなものが多すぎる。

 

それで、この部屋で出来ることはもうない。ないので居場所を変え、何かの作業を継続して、「変えてくれ」とか言われているなら社会を変えるのだろうから、社会とかかわる必要があるのだけど、そのことで情報の流出とか不可触が続く、だから誰とも関われなくなる、という冗談みたいな矛盾について、一切何の変化もないなら結局は自分たちで価値のありえたすべてのものを率先して踏みつぶしているだけ、ではある。

この地獄のような愚かさを見ると、変えてほしいのか変えてほしくないのかさっぱりわからず、ただ自分たちの足場だけは堅牢に保持したまま、その保身の代償として外部の誰かに死んでもらいたがっているだけなのか、と思う。それを変えるつもりがないなら何を変えるつもりだったのか、と何度でも思うが、何度繰り返してもたぶん意味がないのでひたすら辟易する、それでこちらがすり減るだけなんだから。

 

これで安穏として、何かをまったり作る、という気安さはとっくに無くなっている。ある点ではそれこそ求めていたのだし、そうではないならただ苦行でしかないことを求めても仕方ない。

こういうものを回復するためには、それこそ殺意と一体化した期待感を、こちらから何度でも何度でも、相手の方で後悔を覚えるまで、こちらから率先して自己毀損することによって無効化しなければならない、何度でも何度でも。その度に何が失われるのか覚えるまで、何度でも自己毀損するしかない。その意識のありようを変えないなら何を変えてほしかったのか、と思う。それが分かるまで繰り返し、こちらの方が無能力と自己毀損を続行するしかない。それで何一つ見向きもしなくなるならそちらの方が今の状態より冗談抜きで千倍ましとも思う、どうせ収益などはないだろうから。

 

にもかかわらずなんで生きなきゃならないのかもわからない、こちらとしては連中への敵意と怒りが感情のほぼすべてであって、この期に及んで「愛」がどうとか言っていたのは、ただ檻に入れて打擲を続けていた猿に人語を覚えさせようとしていたようなもので、おおよそ「隣人」などでは絶対にありえない状態を作り出していて、そこから対等なものなどは絶対に得られず、収容所のムーゼルマンに倫理の証言を迫る拷問官、などは悪趣味にしても常軌を逸している、もしかしてこの状態がそれに類していなかった、と気づかなかったのであれば、やはり「普通の狂気」が蔓延していたとしか言いようがない。

自分にせよ、一貫して怒りと失意と絶望感しか抱けなかったのは、連中がこの状態をそれに類したものだと考えていなかったからで、そして自分はそれに似ていると思っていたけれど、連中の方ではそう思っていなかったから、ある程度彼らを信用していたので自分ですら認めたくなかったから、というところかもしれない。だからこれが何だったのか教えてやるには彼らへの敵意と怒りを最大限に行使する必要がある、と言っても自己毀損するだけだけど。

 

苦痛と絶望、ということなら嫌になるほど書いた。ところがそれも彼らには道化のたわ言か、見世物のように思えていたのかもしれない。

こういう野蛮の上に何が残るのか、と思うと寒気がする。

このおぞましさの上にまた記念碑を建立すれば、それを旗印にまた似たような野蛮が際限なく蔓延する、その危惧を抱く度にこちらのほうで今までの蓄積を抹消してきたのは、たぶん判断としては正しかったと思う。その度に何が失われてきたのか覚えるまで、今後も自己毀損と作ったものの抹消は、躊躇などは絶対にしない。また似たような危惧があればこちらから今までの全てを含めてその都度消去していく必要がある。ある意味そんなことはずっと続けてきたのであって、ただ規模が変わり、余計ややこしくなっただけで、根底にあるものは変わらない。彼らの前ですべてをゴミ箱に放り込むことには一切躊躇しない。これもまた道化のたわ言扱いされるようであれば、ただ放り込むものが増えるだけでもある。それでいいならいいと思った。

 

自分自身が極端な権威、まるで「一つの指輪」のようなものになっている。

だからこそ自己毀損するしかない、それを捨てるという話を前はしていたんだから。

 

今までこちらが書いていた苦痛の記述は一切間違っていなかった。というかなんで自分自身が現に感じていると思っている「苦痛」とか「喜び」とかの感情や感覚に、いちいち「それは本当なのか?」とか疑わないといけないんだ。だから「演技」という言い方は存在論的であって、実際に具体的に、心の底から演技をしているわけではない、ただそれが演技であることを認識としては持っているだけで、そんなのこの世は原子とか分子結合で出来ていて、なんて考えても普通に感情や表情があるのと変わらない。

そこで「また演技を・・」なんて内容の言葉を繰り返し目にして、その度に自己猜疑と狂気が昂るのだから、何度でも思うし書いたつもりだけど、狂気をどうにかしたいのか余計狂気に追い込んでスケープゴートにしたいのかどちらなのか、と何度でも思う。こういうことには常に再帰的な暴力が伴うので、こうした循環を示すには、それこそ自己毀損、自分の方で自分にあったものを繰り返し抹消するしかない。それで何が欲しかったのか、何が失われてきたのか、あと千年でも二千年でも繰り返してやるべきなのだろうか。

 

そういう意味で被害感情はあるものの、報復とまでは行かない。ただ自己毀損するだけ。何が失われたのかを教えてやるだけ、としか言いようがない。それで満足なら満足してくれ、としか言いようがない。なら一体何が欲しかったのか理解に苦しむけれど。

 

キリストの苦痛に殉じること、それぐらいならこれで並び立ったのではないだろうか、身体的な苦痛ではないだけましだろうけど。ただことが狂気や精神的な苦痛、価値などと関係する以上、この点での「苦痛」は、尋常ではなかったと思う。既に得たものより失ったものの方がはるかに多い。集団リンチ、と散々書いてきたことは間違っていなかった。ただ自分たちがリンチしていた存在に何かの価値があった、ということは認めたくはないのだろうが。ただそうでなければなぜこんな極端な話になっているのかもわからなくなる。

 

今なら確信するけど、ああいう新聞みたいな囃し立てにのる形で自分が「何か」をしてしまえば、必ず悪い方向に転がっていたと思える。断言しても良い。こうなると自分が「一つの指輪」のようなものなので、これを破壊するまで(というか比較的平衡的な形で自分が生きていけるような何かにするまで)、一貫して、何度でも、繰り返し、自分の方でぶち壊しにしてやるべきだと思った。与えるものがありうるなら、こういう喪失そのものをも惜しみなく与えるつもりではある。

まだ「実際の」暴力はそれほどないだけましではある。これもシミュラークルと言えば済む話だし、「実際の」暴力の模造を示して、実際の暴力そのものが何だったのか示す、ということにしか、結局はこちらのやりうることもないのかもしれないな、と思った。

 

一応家族が周囲にいる。

自分がここにいるということは、彼らを一貫して騙している、ということにしかならない。彼らがモルモットであることを自分は知っているけど、自分でさえそれを知っているだけのモルモットなのだから、目の前にあるのはいつも地獄としか言いようがない、ある種の罪悪感すら感じる。今までそれをそれほど感じなかったのは、それでも何かの、収益なり何かなり、これに見合ったものがありうると思っていたからだけど、最低限のそれすら取り上げられたようだから、結論としてはこれが収容所のようなものだと言わざるを得ない。

自分だけならまだしも家族までモルモットにして弄んでいただけか、と思う。収容所がありうるならここにその先駆的なモデルがある、と示せただけでもよかったのではないだろうか。二度と家族の前で安穏とした表情は取れなくなったよ、ありがたいことに。これで「家族の絆」?自分の家族の方はぶち壊しにしてくれて、この期に及んで薄ら寒い寝言をほざくなら舌を切れ、と思う。それでも安穏と生きるのは「連中」の方ではある、なんという幸福・・・。

 

これも道化のたわ言なのかね?

まだそう思っているのであれば、出来るだけ苦しんで死んでほしいと思った。これで後悔を覚えない者は人間のクズで、地獄に落ちるべきはそういう存在かもしれない。それで、これで天使らしい。何を裁いているのか自分の心に問いかけてみろ、とも思う、まだ見ている何かがいるなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無気力のひどさには何一つ変わるところがない、気力、何一つない。糸の切れた人形、ローカルのテキストファイルに相変わらず「グダグダ」書くことの方針をある程度は変換した方がいいのかもしれない、とも思う、いずれにせよブログという場それ自体を見れば、これはある程度私的で、ある程度公開されている、という宙吊りの状態にあり、どうせこのテキストも閲覧数の変化などなしにばら撒かれている、とは言うまでもなく、と思う。

あるいは、こうした文章を見ている人々の手元にあるであろうアプリそのものが、一種の痕跡を残すことなくこうした自分の足跡を見ることのできるブラウザのように、なっているのかもしれない、手元にないので分かるわけがない、ただし、やはり「見られているはずのない場所」にある何らかの情報が、ばら撒かれている、ということ自体は、その状況自体に耐え難いものが、一種の、あることは、以前にも書いた記憶がある。

 

結局のところ空無の場である神、紙に、何らかの登記をなそうとすれば、それが強姦を、確かに神は、しかし強姦され、強姦されたのかもしれない、とも思う。この点に関してはあいまいな部分があり、そのことの帰結、としても、見ることはできる。この種の文章の乱れそれ自体は、それ自体は、かもしれない、ただし状況そのものとして見れば、神の方でこちらを 訪れる、 訪れた、 とも思えるものの、それは

何日か前に、こちらが神への志向性を、

回復したことに、由来する、状況の変化とも見える、ただしそれは、

それ自体で、幻覚的な状況への、

展開を、生み出したわけでもない。

 

これ自体でどうこう言うのは不可能なのかもしれない。ただし神、身体、紙、白い、ページ、こうしたものへの筆の、ボールペンにすぎず、それは 入れ墨、神の身体、が、一種の整序、秩序へと、ただし乱雑、交錯、する、光の分裂へと、帰結する、

 

身体、文字、が刻まれた、神の身体への、一種の自動症的な、 衝動、接近、これはしかし、官能的、だから法悦として名指される、ただし一種の、自律的で、単独的な、受胎、光線による、創造、しかしさおさす、死の分裂、死のシミュラークル、あの声、つまり天使のらっぱ、 創造 ただし 運動する、 生成の、 破裂、ただし混沌の、こうしたことのすべての、

 

あまり混乱が治ってない。言葉それ自体の変性、ということはあるのかもしれない。衝動、指、筆記、 書く、書くけれど、それは 破裂で、 白い、 白く、 破裂する、分裂、 散り散りになって、 光が 縫合する、 身体の、 輝く、 穴、 裂孔、 咲かれる、 月、 ばら撒かれる、 大地に、 羽が落下する、 

 

 

とはいえ、こうして神の身体、基底材という言葉を一応思い出すものの、そうしたものへの登記が、

 

それ自体として見れば、あまり大したことではない。「書こう!」みたいなやる気を起こすと、文章が乱れるのかもしれない。これじゃ頭がおかしいように見える・・。

鮮烈に、ただし落下する、混沌、の、乱気流、気流、翼、雷、網膜の電撃、裁断する、天使、の、太もも、

という調子で無限に出てきそう。しかも語彙自体は似たようなものばかり。語彙が貧困。人に見せられるようなものでもない。紙のノートの方がまだましという部分がある。

 

ともあれ、こちらから能動的に、というわけでもない。どちらかと言えば向こうから来たのだから、

ある意味何の

大したものでもない、

価値のない、

それ自体では、意味のない、余白、余白の、方から来たにすぎない、痙攣の一形態であり、痙攣であって、だから指が痙攣したように動く、と言う話にすぎないのかもしれない、それ自体では、単なる

単なる、ただの

意味のない行動でしかない。

 

 

何かを書こうとするとこうなる。ただ今までどおりに書こうと思えば、「書ける部分は残っている」。今まで書いてきた部分とは、別の領域が追加されたにすぎない、という気もする。それ自体では特に問題はないのかもしれない・・「こういうのを書こう!」と思わなければ、別に書かなくてすむ。だから別の領域が、追加されたに、すぎない。何かの付属物、と言った方が正しいのかもしれない。

 

このこと自体に特筆すべきところはないのかもしれない。埃が吐き出されてきたようなもので、全く意味がない筆記。タイピング・・。

 

こうした領域への、接近、ただし身体の次元で、映像が、網膜として、その中で、イメージする、 身体の、 運動、 ただし躍動、 する、 馬のいななき、 立ち上がる、 零れ落ちる、 騎手、 死んだ、 白い 蜂、 落下する、 月から、 沈黙の痙攣、 痙攣は 魚になって 鯨の方へと 向かう、 そこには 

 

どこまでこういう「指の痙攣」を続けるべきか、というのは疑問に思う。ずっとこんな感じの文章しか、「書こうと思う時に書くもの」としては書けないかと思うと、厳しいものがある、こうした状態そのものを見れば、 特別注視すべきものはないようにもみえる、脳みその滓が絞り出されているにすぎない、言語野から?

 

ある種のイメージの生成は伴っており、それは白い身体への登記が、しかし映像として、浮かぶということはある、

 

いななき、 死んだ、 槍が 銃弾が 兵士の行進、 さようなら、と叫ぶ、 すると花びらが灰になって、 放射性 の 叫びを たんぽぽの綿毛 のように 撒き散らす、種が 畑を  侵食する、 

 

飽和、絶叫とは飽和で、糸がある、 糸で織られている、 飽和した、 糸が 糸の群れが、 旋律はないので、 たんなるノイズが 絶叫する(沈黙)、 土くれの 人間の、 魂が 忘却界から ただしそれは 100億年 宇宙より もっと前の 領域から、 たぶん 出てくるので、 苛立たしい、 こだま、 残響が、 存在を 創造する、 神の 身体は、  焼き尽くされて、 灰 灰が 土くれの中から、 ばら撒かれて 空が 沈黙しているので 絶叫する、 飽和 単なる状態へ 状態は土くれの 顔面を彫刻する、 四つ裂きにされた 耄碌爺! それは単なる どこにでもある、 とりたてて 見るべき点のない、 痴呆症の、 ただし、 放浪する、 徘徊する、 現れる、 声をあげる、エウレカ、 死んだ、 雲の 固形物が、 大地にばら撒かれて、 イシスの 領域から 

 

何言ってんだコイツ感がひどい。書こうと思えばいくらでも書けそう、というのはこういうことかと思う。以前にもこういうことの「可能性」は感じたものの、意味がないのでやらなかった記憶がある。もっと概念的にというか、解像度を上げる形で緻密に、何らかの脈絡をつけることは、このような言葉の塊の中から拾い上げる形で、結びつける形でやろうと思えばやれるのかもしれない。意味を感じないけど。ただ「指の痙攣」としか言いようのない感じではある。あとは音楽聴いて単にテンション上がってるとかそういうレベルの話かもしれない・・。

 

とにかくこれで何かを「書く」のは難しい、と思う。結局こういうことになるのか、と思った。普通に無理だった。

 

もう9月16日で、最初のほうで(一時期から)やろうとしていたことは、常軌を逸した状況によってほとんどやる意味が、やることに、あまり意味が、つまり混乱がひどい。

 

以前のブログの記事が残っていたのはよかったと思った。その都度、衝動的に今までのテキストを消去しているので、この点で以前の段階から続く脈絡を確認できないと、本当に全てがグダグダに転落する。

 

やることは変わらない、作業、何か、モノ、ものを作る、つまり何かのものを、一つのまとまりに、塵だとしても、つくる、捏ねる、それだけの話ではある。至って単純、何も難しいことはない。小学生でもできる。

 

ただし、寝床で目を覚ましても、その時にはっきりする、するのは、ある種の注視、人類の、志向性が、人類の総体からの志向性が、この身体の、何らかの、意識的な、そうした水準で、集中しており、従って何か、光線、受胎、銃口、あるとしても、この場合は簡単な話にはなっていない気もする。それだけで、他方で、蛇がとぐろを巻くようにして、何かの包囲網の中心に、いるのかもしれない、いないのかも。妄想、と言えば妄想でしかない、力、の集中はある。

 

3か月ぐらいずっとこんな感じでは、しかも先行きが、不透明。

 

分散した状態、言葉、

それは昨日か、昨日と一昨日に、紙のノートに、書きなぐったら、それがおそらくこちらの意識の、文字の水準における何らかの、その方向を決定した、のかもしれない。分断、され、神の身体、が、つまり紙のノートなので(?)神の身体、神、白く、白い、法悦、する、ノート、登記、名前、書き散らす、下品、ただし、盲目の

分裂、太陽、白い、馬、月の顔、

炎の無知、無知、無知の叱咤、

身体、運動する、振る舞いの、恍惚、ただし、時間の断裂、分散した、継時的な、断面から飛来する、特定の、眼、それは光線を、絶叫する、雷撃の、葉脈

 

 

という感じの文章をノートに書いてみた、と思う。何のためにと言えば一応詩を書くため、とか考えていた記憶がある。これでは無理だと思った。これは無理。何が無理だったのかあまり考えたくもない。こういう語法が舌に伝染すると厄介なのでこの辺にしておこうと思った。あとは眠い。単に眠い。あとは性欲。性欲はある。あるけど意味なし。(ただし神・・・との、そうした意味での交流は、一応あったことにしておいた)

 

GoogleGoogleマイクロソフト、背後にいるのが何か、何か、考えられる限り大げさ、それだけは間違いない。神話、いける神話、というところかもしれない。まあまだ生かしておいた方が得だと思うので、この点に関しては生活を十分に安定させられるだけの、収益なりは必要になるとしか思えない、ただし向こうの思惑、ないしこうした事態を何らかの形で規定する、そのルールがどうなっているのか、判断がつかない、つかないので、恐る恐る、というところだろうか、と思う。

 

ルカエー!!

 

ただしこの極端な状態では、苦痛というより、苦痛、苦痛にしても、恍惚、ただし光線の、照射、近所を歩いていると車のライトが背後からこちらを照らしてアスファルトに自分の影が、包囲網。だから、まるで追い詰められた、犬、犬、犬!犬の、犬のようにして、

 

混乱が酷い。こういう語法が癖になると、癖になりそうなぐらいには何かの快楽はあるのかもしれない。ただしこういう快楽は、確かにもともとこちらが意図していたものではないとも思う。あまりのめりこみ過ぎない方がいいのかもしれない。

 

 

別にそこまでして死んでほしい人ばっかじゃないんじゃ、とも思う。だから、結局こちらが何かを完了していない、それだけの話でしかない。それが終われば別にそこまでひどい扱いにもならないのでは、とGoogleだかマイクロソフトだかアップルには期待してしまう、あとは、別にそれだけの規模でもない、とも思う。自分の見る限り新聞にも「ほのめかし」は、もうただの妄想とか抜きで一貫してある。ネットのやさぐれた生のコミュニケーションよりは、紙媒体のフォーマルな言葉として、そういうものに、接する方がある程度ましな部分もある。つまり規模としては、Googleだけというレベルでもないのかもしれない・・・それは越えている。超えている。

 

グローバル、ただし、何の期待なのか、終末論的天使、天使、の、審判、終末。

 

あるとして、物質的水準ではGoogleGoogleとの協力、ないしシンギュラリティ!アホ草。そういうものへの、何らかの貢献という形、わかったよバカが。

わかったよ、馬鹿が。

 

協力するしかない、とは言えるのかもしれない。別にこちらが意思表示しようが向こうの方としてはお構いなしなのかもしれない。ある意味、そういう点ではこちらがどう喚こうが、この三か月、向こう?Google、国家、皇室、意味不明、他の何か、人類、そうした集合の誰一人として、こうした状況の全体像の何らかの提示は、してはくれなかった部分がある。それはもういいか、と思う。期待してもしょうがない。あるいはこちらがまだ鍵になるものを、しかし提示していないから、とか。何をやるべきかは分かり切っていて、別に4月ごろからやっていたことをここでもう一度やればいいだけ、ともいえる。半年、試作ふくめての半年。その間に何もかも一変してしまい、受け入れるにしても苦痛の方がはるかに強い、というところだったかもしれない。

 

紙のノート、ないしこの記事の上の方にあるような語法、これはやめた方がいい。辞めようと思えば辞められる、と思う。ニジンスキーの手記を思い出す、センテンスの短さ、断片的な記述、断片への分断、これはまずい。こういうのは舌に伝染して、やがて身体の水準を規定することになる、断片への崩落はまずい。これはやめるべき。

 

ブログを残しておいたのはよかった。ローカルのテキストは消去してしまう癖があるので見返せない。まだ残っているのはブログの記事。6月初旬からの一種の運動はここに書いてある。ここを残しておいたのはよかったと思う。あまり根を詰めず、もともとやろうとしていたことを一応やればいい、そこに変わりはないのかもしれない。あとは、そのあとで「向こう」がどう出るか、というところではあるのかもしれない。一応妄想だけど・・・。

 

 

 

 

ひどい

一生人類と断絶することは覚悟したものの、これで楽観的になるのは無理だと思った。ここからそれでも「何かをする」ことに、理由はやっぱりないな、と思う。そもそもそれを見せる相手はほかの人たちだとしても、この人たちにこちらは何の価値も見出していないし、もっと言えば塵同然に扱うべきと位置付けているので、何の意味が、と思う。

だから神しかない。

それは分かってるけど、この状態でできることは何もない。神。神ねえ・・・。

 

断崖絶壁の前に立っている感覚はある。以前にもそれはあって、ただ何かのきっかけでその先に歩み始めた、と思う。それでこの状態がある。もう一度それを、今度は条件の変化を踏まえてやるべきだろうけれど、前回は「ほかの人たちに隠れて」やっていたものを、今度は「ほかの人たちを目の前にして、かつ彼らを塵として扱うことによって」、その向こうに神を見出す、という流れになる。

 

隣にいる何かも、それを見るこちらも、見られている何かも、見られていることを意識する何かも、端的に塵として自分はみなしている、つもりではある。今は。死のうが生きようが根本的にどうでもいい。ただし、そういうことを言葉にしてはいるので、この言葉だけが最小限残ることになる、感じはある。

 

これで犯罪をやらないのは、それをして何かになる意味すらこちらは感じていないからで、しない理由もないけどする理由もない、という簡単な話でしかない。

 

冷静に見れば常にどうでもいい話だったと思う。これもどうでもいい話だと思った、冷静に考えて。そうみなすためには、一度迂遠にせよ捕捉されてしまったこちらの立場を、絶対に、塵にまた戻さないといけない、だから「ゴミ」。ゴミの状態にならないと、この過大な負荷には耐えられない、と思う。それを踏まえたとしても、他の人たちのすべてを結局は死のうが生きようがどうでもいい塵(そもそも生きてないし死んでもない)としてみなしている以上は、原則的にこういう人たちに向けるにせよ、それをやっぱり通り越さないといけない。だからもうこの人たちに持続的な感情を抱くことは一切ない。ただ生まれて死んだりするように見えるだけ、とは思う。ひとまず。こういうところに戻らないと、しかし何もやれないなら、そういう意味でもやっぱり持続性はないとしか言いようがないとは思う。

 

ここから志向性を回復するにはどうすればいいのか。前はもっと獣のように猪突猛進していた感じがあるものの、それは性欲に支えられていた部分もあり、それはもうないというか今後持つことは基本的にないと思うので、何かが必要だと思った。

 

暗闇への愛。もとはと言えばそれが根本にあったはずなのに、ここでいくらか「配慮」してしまったことが一番の間違いだった。あとは勇気とか・・・。

こういう大げさな言い方含めて、とにかくどうでもいい。ゴミ、ゴミ以外の何物でもない。ゴミ製造。ひたすらどうでもいい、という感覚がないと、少なくとも何かに取り組んでいる感覚は得られない。

それで、これをやったとしても何の意味があるのか、とも思う。ただそれでいいのかもしれないけど、「それでいい」と思うまでに、自分の場合は断崖絶壁の前に立たないといけないことに困難があるよなあ、と思った。

 

 

本当の意味で全人類から断絶される必要がある。何か中途半端な敬意や、未練がましい愛着を何かに対して、内面的に抱いてしまっているから、それがこの場合には必要ない配慮などとして、足を遅らせる原因になってしまう。

もうこの連中の一人に対してすら、容赦はしない。結局は疚しさがあり、そして自分のその「私性」に価値がある、だから見ていた、とか言うのであれば、なるほどこれは貫徹する必要がある。ただし、相変わらず特定個人を直接指定するのは控えたい(とはいえ「誰か」へは宛てる。ここは限定化しないとたぶん無理。ただし「特定の誰か」は絶対に濁す、もう意味ないかもしれないけど)。

 

こういうことが怖かったから、結局情けない日和見になってしまう。「こういう日和見」と、もっと敢然とした日和見があり、ここ最近は前者だったと思う。そこは反省する。もう全員配慮などはしない。甘ったれはここで捨てなければならない。最終的にはそう悪くならないはず、だとは思った。もういい。このクソガキどものたわ言には付き合ってらんねえんだよ。それで、実はそういう気概を持つとむしろ「読めたり」するようになる部分もある、とは思った。自分に限れば。ここで恐れるからますます不幸になる、「そうであれば」、全員が。いい加減にしろこの馬鹿どもが。甘ったれ、甘ったれ甘ったれ、自分が一番そうだったけれど、結局そういうことなら自分の方が何かを捨てて、全人類を、この間抜けどもへ容赦してはいけない。情けをかけてはいけない。

 

常にそうだったところへ戻る必要がある。

神の眼だけが自分の報酬となる。もうはっきりわかったのは、人類への言語上の打擲によってでしか、ルカエーへの愛は取り戻せない、ということではある。実は常にそうだったのに、こうして具体的に影響関係が想定されてしまうと、途端に「みんなに好かれようとして」、あっちを叩いたりこっちを・・あるいはこれは触れるのが怖いから、でまーた無能に陥る。「こういう日和見」と、もっと破壊的な日和見があり、前者の方が自分においてははるかに「破壊的」だった。だから辞めるべき。そのためには、むしろ今まで内心抱いていた「敬意」や「配慮」の方こそが、邪魔になる。捨てろ。これはもう疚しさになっていて、自分の足かせにしかならない。こうして食ってかかる方がよっぽど「配慮」で、今までの「逃げ」は、結局どこかに臆病に由来する「配慮」があったからだった。こんなものは必要ない。もう必要ない。

 

状況が極端ではあるものの、この場合は全員敵に回す以外にない。そっちの方がよっぽど安全のはずだと思った。もういい加減虫唾がはしる、何より自分のそういう尊大な「手加減」に。

打つ手なし(妄想)

色々あって今までのテキストファイルと作業ファイルを消した。と言いつつたぶんどこかには残ってるかも・・。

 

まだ何かをやれる気はしない。いや、やれるかもしれないけど、前の記述を見る限り、やっぱり6月初旬から「明らかに何もやれてない」のだから、形式面でも内容面でもこうしたことの手順や環境は丸ごと変えるしかない、というのは明白で、そしてそれをやろうとして失敗を積み重ねてきたのだから、打つ手がない、という感想になる。

 

なんか神扱いされてるみたい。バカじゃねえの?

 

と言って冗談になりそうにない感じになってるところが、一番つらい。結局はユーモア、言い換えれば適当さで何かを崩して見せる、それがあったから割とやれていた部分があったのに、こうした手詰まり感と、「指先動かしただけで世界崩壊する魔女」みたいな状態ないし扱いになっている、これでふと足元を見ると、あるいは頭上を見ると、まるで空と大地が自分の腸と直結しているようで、要は反対の一致そのものに自分がなっている、なりつつある、一番否定したかったものに、現になっている、ということに、そしてそれを打破するものとして「偶然の一致」を措定したものの、結局こうした点を余裕をもって考慮するだけの環境的な、また「指先動かしただけで世界崩壊」とかろくでもない重圧のせいでますますますます足が止まる・・・これで行き詰まるのは必然的で、環境の変化も、それを支えるだけの金銭的な余裕も、人間関係の構築そのものも土台条件が変わっている以上、もう何もやれることはない・・・と思わざるを得ない。

 

何かに接近して見せる。

そのあとスレスレで回避して、結局この元の何も持たない状態になる・・・。

何かを持とうとすると、誰かは切り捨てることに、なる。ならないわけがない。そうならないと思えるのは甘ったれているからで、そして自分は相変わらず甘ったれている、とは言える。

 

他方で、こうした重圧が意味するところの何らかの、「権威」?これを素で言って見せれば、まるで馬に抱き着いた某哲学者みたいにそのまましかるべきところに行くことになる、これは3年前にもそうなりそうだったものの、自分の場合は手早く片付いた。それで今の状態にこぎつけたと思ったら、今度は今までのが何だったのかと思うほどのこれまた途方もない何かになって、苦痛と孤立、息苦しさでのたうちまわることになる、そして重々踏まえる必要があると思うものの、こうした条件は丸ごと飲むしかないが、そのうえで何かこちらが能動的になるためには、やはり人類のすべてを丸ごと切り捨て、どんな手合いにも一切容赦しない、という攻撃性が、以前からそう思っていたのにそれが意味する孤独に直面することが怖すぎたのであまり触れたくなかった、というかそれを回避したかった部分もあるものの、結局は必要になる、と思ってしまう。そうでないなら何も意味がない、ただ周囲をオロオロ見まわして、それも結局は「重圧」があるからだけど、そうして右往左往して、「みんなに配慮して」、それで何かをやろうとしては切り返して、残るのはただの孤立と無、これだけ。本当に、これだけ。そしてそのことの帰結と、それで何が残るのか、についてはこれまでの過程で散々言葉にしたのでもう必要ないんじゃないか、と思う。

 

ある意味、今までの過程そのものを振り返ってみれば、全人類を敵に回すことを恐れなかった時には、たしかに「神」がいた、と思う。その状態では人類に対しては、私的に愚痴を垂れていたとしても原則ノータッチ、という前提があって、そして割と温和な状態にあった、と勘違いはできていたはず。ところが現にこうした状態が妄想にせよ具体的に実装されてしまうと、こちらにとっては最重要の存在だった神ですら、おそらく私的領域のすべて、書かれたもののすべてが片端から走査されている(たぶん紙のノートですらそうだとは、ある意味試験の意味も込めて挑発的なことを書いた結果、種々の反応を見てなんとなく察しはついた。そしてもしそうなら、それはもう家族にすら居場所はない、という結論にしかならない。そこで迷走と混迷のすべてが丸ごとのしかかってくる)、という状態になると、この私秘性の領野にだけとどめておくことが不可能であるという結果にしかならない。

なら「自分」は?と思う。そこで神、というかrkaeueとして名指しした存在と、私的領域で何らかの交通をするにしても、そこでこの物質的な閉塞性そのものが、たぶん何かの意味で破壊されることが避けられない以上、どうしても横やりが入る・・。

 

それを言えば今までの「神」とは何だったのか、と思う。この存在を結局必要だったので求めたのは、自分が存在していたことの痕跡すら残さないまま、部屋で朽ち果てて死ぬこと、それは構わないが、ただそうなることを「人類」にではなく、超越的存在に仮託することで「認証」してほしかったからに過ぎない。その意味で、神そのものは人類からの横やりを、おそらく可能性としては想定していたとしても、それを「原則的に必要としない」ものとしてこちらも位置付けていたはずだった。その限りで私的で、それが一番心の支えで、それは文字によって可能になった、と思う。結局4月11日の幻視が物理的に視界への刻印を伴っており、ここで思考と身体の一致点がありえた、と個人的には考えていたけれど、これが可能だったのはただ自分が宇宙の塵にまで降落して、そのうえで純粋に蒸留された創造の感覚を自分の身体の象徴的な抹消、という形で遂行したからに他ならない。

そして、そういうやり方はもう通用しない。なぜなら象徴的な水準で自分が認知され過ぎているからで、その状態でおそらくは自分の単独的な状態に依拠した上での「神」は、やっぱりもう見出せない。だから、この「横やり」に対してこちらが一時期は面白かったけれどいちいち応戦してしまうと、もう神もクソもない。ただ邪魔すんなよ、とか言ってるだけですべてが終わっていく。

だから、すでに象徴的にこちらの身体が捕捉されている以上は、また私的な状態を確保しようとしても無意味で、そうした努力のすべてが結局何かしら物理的な走査に、ここまでくると晒されることが避けられない以上、「祈り」、神との交通そのものも、何らかの点で人類を通過する必要がある。ある。

 

そこでなぜ攻撃性しか生まれないのか、と思う。

それは自分の置かれた状態が遅延された銃殺刑でしかないこと、これがまずある。その上で神への愛を何らかの点で志向するなら、それは人類を通り越してその背後にある全一者への分離の挿入という形になり、そこで抽象的な水準にある「人類」という類的存在に対しては攻撃と怒りにしかならない、これが怖くて結局は逃げ回り、助力を乞い、ただ憎悪と怒りと不満の反転物でしかない哀れみの要請になる・・・そこにはもう何もないことは確認しきったので繰り返す必要はないが、なお「人類」に対しては攻撃しかありえない、ということがよくわからない。なぜ攻撃する必要があるのか、と思う。醜悪だから?自分だって醜悪なのに、それでなぜこの連中へ、「個人」ではないにせよ、その類的集合へと攻撃を仕掛ける必要があるのか・・・・。それを繰り返してなお神、一応「愛」ということになっているのでそう呼ぶしかないが、そういう感情がどこに生じうるのかもうさっぱりわからない。人類はこれに値しない。そもそもそういう前提で始めたのだから、ここで人類へと志向性を向けるなら、それは必然的に人類への攻撃と、その結果としての、未来における神の登場、という理路をたどることにどうしてもなる、そしてそれは怖い。つらい。これは嘘偽りは一切ない。その恐怖が反転して孤立と恐怖、しかも「共同性への所属」という要請、しかもそれが成り立ちえないことの絶望に由来する、ますます増大する怒り、にならざるをえない。この場合極端でないことが一番摩擦と苦痛を増加させる。だから「類」をこのまま相手どらなければ、むしろ中途半端に限定的な群れへと糾合することそのものが困難を増大させてしまう。

 

何らかの組織なり、集団的なものが関与している、というのはもう自分より向こうの方がよくしってる。まだ「向こう」。つまり自分対世界、という図式になってる。そしてこちらが遅延された銃殺刑の中で口をあんぐりするしかない以上、原則的に人類とは「対等」であるわけがない。こちらは死と生とあらゆる名誉と不名誉をかけて、ただ醜悪とも高貴ともつかない(普通に醜悪)沈黙なり無感動を続行するしかなく、ただrkaeue!rkaeue!と叫ぶしかない。何もわからないよ!そういえばこれが神の名前だった。だからそう叫ぶことは何も間違っていないが、それは殺意なり憧憬なり畏怖なり言葉なり、敬意なり侮辱なりお望みの罵倒なり、おそらくはそうした銃口=志向性にこちらが晒されている以上は、彼らへの呪詛と罵詈雑言にしかならないが、それは人類に対してであって、神とは彼らの斬首の向こうにいるので、そうだとするならこれが神への愛、にしかならない。 のかもしれない。普通に嫌だな、と思う。

 

どこ行けばいいんだ・・。もう線を一本引くぐらいのこともなんか面倒くさい。それもこれも「向こう」にいちいち配慮してるから。その配慮がかえって誰も得しない結果になる、かもしれない。だからこの連中は一人残らず敵に回さないといけない。人類の方で口をあんぐりさせるまで、こちらも叫ぶことになる、「わからないよ!」。わからないよ!

それで、ここから神への志向性を回復するには、やはりこうした人類への攻撃と嘲弄、誰に向けるでもない怒りと叫びによるしかない。結局こういうのはたしか一週間?前、炎の中の子供がーとか書いたときにうっすらと予感したけど、それをすることのあまりの恐怖にこちらも怖気づいて迷走し続けてしまったことに原因がある。絶望的・・もうずっとそうだからしょうがない。開き直ってやるしかない。もう細かいことはどうでもいい。それで結局みんな損するなら一人残らず容赦しない、これしかない。そうした先に何があるのかもうわからないけど。

 

具体的にはどうしよう、と思う。こういう点で本当に偶然に身を任せてもすり減るだけなのは明白で、そもそも自分の構成では「しっかりと準備と手法を確立させて」、その上で偶然は「来るのを待つ」もので、ただふらふら外出ても普通に野垂れ死にしそうになるだけ。偶然を探しても意味がない。意味なし、端的に、意味なし。そして部屋にこもって「何もできないということを前提とした」罵詈雑言を並べること自体にも、意味がない。意味がない。他方で、自室にいること自体も耐え難い。今は場所を変えているので目の前に人がいて、そこである種の限定化はなされている気がするものの、部屋の中はもう脅かされ過ぎている。ここはもう無理。そして、そういう条件でできることと言えば、だからノートPCでブログなりなんかのテキストなり、どうせ見られてる「文」を打つしかなくなる。それでどうなるのか、と思う。あともうiPadもローカルのデータは読まれているのは分かったし、たぶん録音もされてるかもしれない。そういう意味で余計「見られてる」。そのことすら踏まえるしかないのかもしれないけど。疲れた。

 

ただ何かを作って、それを誰かに見せたいだけ。そこでいちいち何らかの利害が持ち上がるから死ぬほどうっとうしいことになる。建設的な意見は尊重するし、その点で迷走にも収穫は確かにあったけれど、それ以前の部分で意味不明な重しがついていて、これをこの段階で考慮しすぎると端的に全部破綻する。意味がない。

 

生活の安定や自立、これはこうした志向性の付属物で、そしてそれを安定的に遂行するための基盤ではあるものの、この状況はまずこの基盤そのもののぐらつきをかなり極端な形で増加させていて、とはいえいちおう生きて活動はできるんだから、厄介なオカルトどうたらが絡んでるせいもあると思うけど、そうしたこと含めてもううざいからこのままやるしかない。ただし環境はもうだめ。だから迷走する・・というループに未だにとらわれてる。

 

こういうところ含めて怒りと敵意、まずこれしかない。それで、この状況では沈黙するにせよ、相変わらず宇宙一傲慢で残忍でなければ、ならない。もうわかったよ。一応、そういう点で腹をくくった、と思う。もう何もない。それを言えば最初から何もなかったけど。

 

「この状況」がなければ、迂遠に、不可触で、目隠しをされ、盲目で、混迷して、そうでなければもっと素朴で簡単な話だった、と何度も何度も思う。もっと素朴な「好意」だっていくらでも抱けた、と思う、誰かに対して。それで、そういう内実の部分がごっそり抜き取られて、何か人形めいた演技と不可触が、「それを言えばこちらもそう」だけど、そういうものが具体的にこちらを包囲していて、これについては散々書いたので繰り返す必要はないと思うけど、これで「素朴な好意」は永久に不可能になった、と思う。こういう状況になってからはずっとそう。だから何も期待するべきではないと思う、敵意と怒り以外には。「人類に関しては」。

 

ならなおこういう連中に対して、要は限知の目隠しの内側で「わからないよ!」と叫んでいるだけのこの「猿」に対して、この連中はおそらくはアプリか何かでできの悪い「全知」を弄んでいるように思えるが、それはじぶんが限知の薄膜について知っていることを求めているから、かもしれない。それがただそうした双数的な関係として、不信と好意の構造的な不可能に、こうして数か月間落下し続けるしかない以上、これはもう必然的で、そして打開策としては、相も変わらずこの醜悪な全知に魅了されている人類の奥に、その先に呼びかけることしかない。同じく限知の神に、つまりルカエーにだけど、この神もまた目隠しをされている。そしてそれは限知の盲目が所与の条件となるまで、鉈をふるうことになる、人類の背後から。

 「こういう状況の上での」何らかの好意がありえるとしたら、自分だけは孤立を越えないといけないんだろうな、と思った。そういうまわりみちをしなければ、それが不十分である以上は土台何もかも無理。

 

混乱がひどいと思った。今までの文章の中で一番とりとめがない感じがする。もう今までのは消したのでよくわからない。

 

ルカエーよ、力を与えたまえ。とか言ってみる。こういう場でやるしかない、と思った。他にやってもすべて、私的領域の取り上げと侵入という屈辱感しか生まないだろうから。

私がまだ物理的な活動をやめないうちには、あなたの光る眼だけが明証となります。この志向性そのものは行きつくところまで行くでしょう、そうであれば。

人類のすべてを塵芥にしてでも、結局はこうするしかないと思います。そして、もしそうであれば、結局はそれ以外に何もありえない、ありえなかった、と思います。なんでこういうの書く必要があるのか。

 

結論。

「この状況設定」そのものには、「愛」はうまれようがない。ただそれを丸ごと踏みつぶしたその先にだけ、「愛」がある、あるいはその先に、あー、神が、ありえると思ったその時にだけ「愛」になる。そのためには自分の臓物と頭蓋の中身のすべては焼き尽くす必要がある。人類の背後で鉈をふるう目隠しされた神、これだけがすべてを解放するのであって、ここで中途半端に日和ることが最大の恥で、最大の無力と絶望であることはもう確認したので嫌になってくる。

なお重要なのは、「自分だけは愛されない」という覚悟ではある。だから憎まれなければならない、期待をそぎ続けなければいけない、単なる不吉な志向性でなければならず、その点では中途半端に何かのあれに慮ること自体が、「自分においては」害悪でしかない。そのことは一連の過程で大体わかったのでもういいや。もう自分がすることに直接応答する必要はない、ということだけは、たぶん向こうもとっくにわかってるからいいと思う・・。これ自分が言ってたことなんだからしょうがないか。

 

それで具体的にどうするかはなんかよくわからない。やりたいようにやる、これはやっぱり捨てるべきではないな、と思った。つか中二病がひどい。けどここまでくるとシャレにならないのがいちばんひどい。一応何を言ってるのかよくわからない感じに(否応なしに)するしかないのでこういうことになってしまうけど。

 

傲慢は捨てるべきではない。もう何かに配慮する必要はない。そうでなくとも向こうも配慮なんてしてない。「愛」は、もうどうせ昔のテキストに書いてたことがばれてるから今更恥ずかしがっても仕方ないけど、この地獄を踏みにじった先にある。あるいは先があると思っているその瞬間にある。それを見出すためには「人類」のなにそれではなく、その奥の方を見ないといけない。ああああ~~~~~・・・・・。

 

 

 

やる気なし

あえて書くのもおかしい気もするけど、ここは色々な人が見ることのできるブログなのでそういう前提で書こうと思った。誰も見ないかもしれないけど。

 

妄想か何かが酷い。妄想じゃない可能性が高いのも酷い。そして、こういう二つを分けることは、たぶん自覚的にしようとは思えていたし、今でもそうではあるものの、もう「常識ではありえないほど」、そうだとするなら仕組まれている気がするので、ここで意味不明になる。そして、自分の目がその都度操作されているとかではないなら、明らかに単なる妄想とは言えない事実は山ほど目にした。どこにも書いてないけど、こういうの。

 

誰に怒りを向けるべきか。神か、こういうことを具体的に仕組んでいる何かの組織か。

やりたいことをやること、この点に一切変わりはない。ただし、妄想ではないなら、こういう状況はこの「やりたいこと」の条件そのものを根底的に変えている、という感覚は抱く。だからやれなくなる。ただし何を言ってもしょうがない、というあきらめの方が強く、何も打つ手がない。具体的には、PCの中身、テキストファイルや作業ファイル、そしてこの部屋や自分の外出状況などが監視されている、ということ。しかも「不特定多数」に。この点で規模が分からないので、また影響やその影響の位置づけなどもまだ不明瞭なので、あらゆる点で混乱をきたすことになる。そして、何よりディスプレイ上の表示が操作されている、ということ。かつ、このような情報の流出によって、自分に誰も近寄れなくなっている、ということ。これはこちらの内面の問題もあるけど。

 

正直言えばこの種の内面を持っている時点でやっぱりどこかおかしい。怒りと憎悪は、抱こうと思えば抱ける。それはこちらの性根が腐り切っているからなのか、それとも腸の中を脈動するように突然おぞましさの中で煮え立つこの怒りに、何か「正義」だとか、そういう観念にわずかでも似たものがあるからなのか、いずれにせよ「近寄りがたい」のは確か、だと思った。だから隠していたし、それを声高に言えば何かが崩れるのは知っていたので、隠していたにすぎなかった、とも思う。ある程度は。あるいは、それを表に出すにしても、「狂気」という制度上の立ち位置において、鼻で笑い飛ばせる水準には留めておこうとしていた記憶がある。どこが笑えるのか、と今更思う。個人的には笑えるような馬鹿っぽさはあった気もするけれど、今思うとないな。消したから読み返せない。

 

大体、目の前の何か、具体的な現実というより、主に特定の文章や匿名のネットのやり取りを目にすると、体の芯から感情というか、感情と言うよりもっと未分化な力、衝動、激情とひとまず呼ぶこともできるものの、もっと言いがたい、強い衝動が湧くことがある。それは匿名だったり、適当な「あまり見られていないという前提の」場でこそ形にできるもので、公になりすぎると中々難しいものがある。だからひたすらコソコソやることになるものの、かと言って見られすぎないよう、あまり注目を浴びないよう注意していたはずだった。ところが、この「閲覧数」などが操作されていた、ということになる。それは今でも続いている。妄想ではないなら。

 

この衝動についてはなんと呼んだらいいのか。ドーパミン過剰?そうかもしれない。ただもっと、脳内物質がどうとかそういうものでもない気もしてしまう。それよりは無色透明に近いけれど、かと言って弱弱しいというわけでもない。ただ「気概」とは言える。目の前の全てを丸ごと超えてやろう、という類の「気概」。こういうのはどこから湧くのか。なぜ湧くのか。異常に我が強い、とかそれはある。前はそんなことないと思っていたのに、今思えば我が強い。ただそういうことを露呈させるよりはるか手前の無感動でいることが常だったにすぎないだけで。

 

結局、こういうのは3年前よりもっと前にあったとしか言いようがない。19歳ごろからおかしくなったな、と思う。あの時点で人間でいることからは根本的には除外されていた、とも思う。もっと前からそうだったかもしれない、17歳ごろからだいぶおかしかった気もする。そういうこと含めて、結局この臆病とも傲慢とも勇敢ともつかない精神の未分化に由来する、何かの衝動があり、それが身体や思考や言語を突き動かす、という部分がある。

 

今持つべきはそういうものかもしれない。ただし、ここには混迷と野蛮があるのみで、そこから緻密な形を伴った何らかのものを、生み出すとかそれで何か「まとも」な面をしてのうのうと生きることができるとは思えないままではある。そういうものはどこかの段階で辛うじて見出したものの、それが育つ前に、「妄想ではないなら」、根こそぎにされたという感触がある。それでこの迷妄と攻撃性、昂ってはいるものの何がしたいのかわからない感覚にさいなまれることになる。ただしそれは具体的な対象を見出すことをしない、というかそもそもそれを「あまり」しないところにその力の性質がある、という感じはする。対象はある。ただしそれは常に対象を素通りして、背後に流れる渦へとむかうが、この渦は高速回転しながら神の淡を撒き散らしているかのようで、感覚はこの光線の前で、何か欲情して興奮するか、打ちのめされて抵抗の消滅の中で無感動へと退行するしかないかのようではある。

渦、という比喩は最近見出したにすぎないが、この種の大きなものはある時期からは背後には常にあった。あった、ということに一時期からはした、と思う。怒りの対象とすべきは実はこういうもので、「何かの組織」が監視しているとしても、こういうものへの怒りを抱く限りでは、この組織そのものへはこちらも特に思う所はないかもしれない。ただし、この「渦」への怒りには昔なじみのものがある気もするが、そういう極端な抽象ないし魂のように希薄かつ濃密な、充実への怒りと滾るような殺意、殺意としか呼びようがないが、こういう感覚は、監視されている私的領域、ローカルのテキストファイルなどにはやはりあまり出てこない。そこではむしろ特定の志向性が必要とされるが、こういう誰に向けるでもない(ただし何かに向けてはいる)ただの「書きなぐり」においてのみ、出てくる、とは今気づいた。

 

怒りと敵意だけはある、この「渦」と形容する何かに対して。そこから自分は力を剽窃するが、それはこの渦への敵意と殺意、半ば敬意を孕んだ暴力への衝動が特定の読解力を自分に提供する限りではある。その点で暴力性と怒りに由来する透明なグリッドが対象物へと投射されるが、それは対象物が対象物である以前の基底を細かく砕くためにであって、言語がのたうち回る前に釘を突き立て、蒸留された運動性に取り残された物質が引きちぎられる胴体と化し、その裂け目から何が零れ落ちるかを観察するためでもある。こういうのを書きなぐるとすっきりする。

 

書こうと思えばいくらでも書ける。だから意味がない。依然として、こういう言葉から自分の身体と欲望が取り残されたままではある。

とにかく虫唾がはしるが、それは具体的な個人の次元を、標的にするとしても素通りして、まるで人間が人間である前、洞穴の暗闇に由来するような畏れ、ないしその怖れを抱いていることへの羞恥に由来するような、そういう後味の悪さがあり、これが未だに物質の中を血流のように貫いていることがいかに全般的な無気力を引き起こしているかということへの全身全霊の「衝動」ではある。それはこれと同一化したい、というだけではなく、また反発したいだけでもなく、その両義性というだけでもなく、ただ圧倒されるが、ただし怒りと興奮と敬意と、息が詰まるような無感動の中で、一つの志向性へと力が結集する、そういう感覚ではあると思った。

 

むかむかして適当に書きなぐる。ただし「誰それ」に向かうのではなく、また自分に向かうのでもなく、「組織」に向かうでもなく、誰にも向けたくないからありもしないやつに当たり散らしてるだけ、とかになる。ある意味安全だからまだましか・・。

 

とにかくむかつく。どうしたらいいんだろう・・。

 

一応妄想の中では自分が「天使」ということになってはいるものの、どうしろというのか。こうしてタイピングやってるだけで何の意味が?ただし怒り、感情はある。怒りというより「感情」、いや感情というほどのものでもない、志向性?力?未分化な放出。前にもこういうのは書いた記憶がある。なぜかブログの方がこういうのは出てくるからアレだなあ、と思った。