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公開の日記

焦土作戦

全部妄想だった気もするけど、ここまでくるとそうではないだろうからひたすら絶望感と失意で内臓が捩れるような感覚になる。

 

ある意味異常事態が続いていて、その中心に自分がいて、高まる期待か恐怖か、何かの特異な感情が広く波及して、そのことで集団狂気としか言いようのないものがいくらか生まれているように感じたので、こちらから率先して作業データや、発言や振る舞い含めた「可愛げ」を破壊しなければならない。

今思えば、これこそ「権威」の極みでもあり、それを内側から率先して爆破していくこと抜きには、それだけならただの否定的な権力者でしかなく、その窮乏感と苦痛が、こちらの行動の全てをネガティブなものにする、それはある程度必要だから開き直っていたものの、過度になれば(この場合は匙加減が一番大事になるかと思った)集団狂気の挙句に、レイシズムパラノイアファシストとほぼ変わらない論調を平然と、公的な新聞社などが堂々と掲載するようになったように思えるので、何度率先して自分に属するものを破壊していかないといけないのか、と思う。

 

これでは何もできないけど、それで「本当に」何も出来なくなっていることを、どうも理解していないようなので、こちらに投射する感情や見方が何だったのかに気付くまで、その帰結を何度でも示してやるべきなのかもしれない。それを変えずに何を変えるつもりだったのか、と言いたくなるようなものが多すぎる。

 

 

紆余曲折の挙句、自分が天使であることは自意識としては、また恐らくある程度公的な周知としては広まった感触がある。それすら不可触であることに変わりはないけど。他方で、これがただの「妄想」であること、そして言うなれば、そうした「宗教妄想」をある程度気力や能動性の根拠として用いる、という元々の姿勢に戻る必要がある。

その際には、別に給与を貰ってるわけでも側近がいるわけでも他の何かが保証されてるわけでもない自分が、なぜかいつの間にか「他の権力者や権威をもつ存在」と、扱い方としては似たものになると思われているようなら、何度でもこちらからその扱いそのものを破壊してやる必要がある、何度でも、何度でも。

その度に無能力になり、自分や他の何かにとって何が失われてきたのか、この一連の出来事の連鎖によって何が喪失されてきたのか、そのことを二度と忘れられないぐらいに「覚え」させてやる必要すらある、それ抜きで何を変えるつもりだったのか、と言いたくなるようなものが多すぎる。

 

それで、この部屋で出来ることはもうない。ないので居場所を変え、何かの作業を継続して、「変えてくれ」とか言われているなら社会を変えるのだろうから、社会とかかわる必要があるのだけど、そのことで情報の流出とか不可触が続く、だから誰とも関われなくなる、という冗談みたいな矛盾について、一切何の変化もないなら結局は自分たちで価値のありえたすべてのものを率先して踏みつぶしているだけ、ではある。

この地獄のような愚かさを見ると、変えてほしいのか変えてほしくないのかさっぱりわからず、ただ自分たちの足場だけは堅牢に保持したまま、その保身の代償として外部の誰かに死んでもらいたがっているだけなのか、と思う。それを変えるつもりがないなら何を変えるつもりだったのか、と何度でも思うが、何度繰り返してもたぶん意味がないのでひたすら辟易する、それでこちらがすり減るだけなんだから。

 

これで安穏として、何かをまったり作る、という気安さはとっくに無くなっている。ある点ではそれこそ求めていたのだし、そうではないならただ苦行でしかないことを求めても仕方ない。

こういうものを回復するためには、それこそ殺意と一体化した期待感を、こちらから何度でも何度でも、相手の方で後悔を覚えるまで、こちらから率先して自己毀損することによって無効化しなければならない、何度でも何度でも。その度に何が失われるのか覚えるまで、何度でも自己毀損するしかない。その意識のありようを変えないなら何を変えてほしかったのか、と思う。それが分かるまで繰り返し、こちらの方が無能力と自己毀損を続行するしかない。それで何一つ見向きもしなくなるならそちらの方が今の状態より冗談抜きで千倍ましとも思う、どうせ収益などはないだろうから。

 

にもかかわらずなんで生きなきゃならないのかもわからない、こちらとしては連中への敵意と怒りが感情のほぼすべてであって、この期に及んで「愛」がどうとか言っていたのは、ただ檻に入れて打擲を続けていた猿に人語を覚えさせようとしていたようなもので、おおよそ「隣人」などでは絶対にありえない状態を作り出していて、そこから対等なものなどは絶対に得られず、収容所のムーゼルマンに倫理の証言を迫る拷問官、などは悪趣味にしても常軌を逸している、もしかしてこの状態がそれに類していなかった、と気づかなかったのであれば、やはり「普通の狂気」が蔓延していたとしか言いようがない。

自分にせよ、一貫して怒りと失意と絶望感しか抱けなかったのは、連中がこの状態をそれに類したものだと考えていなかったからで、そして自分はそれに似ていると思っていたけれど、連中の方ではそう思っていなかったから、ある程度彼らを信用していたので自分ですら認めたくなかったから、というところかもしれない。だからこれが何だったのか教えてやるには彼らへの敵意と怒りを最大限に行使する必要がある、と言っても自己毀損するだけだけど。

 

苦痛と絶望、ということなら嫌になるほど書いた。ところがそれも彼らには道化のたわ言か、見世物のように思えていたのかもしれない。

こういう野蛮の上に何が残るのか、と思うと寒気がする。

このおぞましさの上にまた記念碑を建立すれば、それを旗印にまた似たような野蛮が際限なく蔓延する、その危惧を抱く度にこちらのほうで今までの蓄積を抹消してきたのは、たぶん判断としては正しかったと思う。その度に何が失われてきたのか覚えるまで、今後も自己毀損と作ったものの抹消は、躊躇などは絶対にしない。また似たような危惧があればこちらから今までの全てを含めてその都度消去していく必要がある。ある意味そんなことはずっと続けてきたのであって、ただ規模が変わり、余計ややこしくなっただけで、根底にあるものは変わらない。彼らの前ですべてをゴミ箱に放り込むことには一切躊躇しない。これもまた道化のたわ言扱いされるようであれば、ただ放り込むものが増えるだけでもある。それでいいならいいと思った。

 

自分自身が極端な権威、まるで「一つの指輪」のようなものになっている。

だからこそ自己毀損するしかない、それを捨てるという話を前はしていたんだから。

 

今までこちらが書いていた苦痛の記述は一切間違っていなかった。というかなんで自分自身が現に感じていると思っている「苦痛」とか「喜び」とかの感情や感覚に、いちいち「それは本当なのか?」とか疑わないといけないんだ。だから「演技」という言い方は存在論的であって、実際に具体的に、心の底から演技をしているわけではない、ただそれが演技であることを認識としては持っているだけで、そんなのこの世は原子とか分子結合で出来ていて、なんて考えても普通に感情や表情があるのと変わらない。

そこで「また演技を・・」なんて内容の言葉を繰り返し目にして、その度に自己猜疑と狂気が昂るのだから、何度でも思うし書いたつもりだけど、狂気をどうにかしたいのか余計狂気に追い込んでスケープゴートにしたいのかどちらなのか、と何度でも思う。こういうことには常に再帰的な暴力が伴うので、こうした循環を示すには、それこそ自己毀損、自分の方で自分にあったものを繰り返し抹消するしかない。それで何が欲しかったのか、何が失われてきたのか、あと千年でも二千年でも繰り返してやるべきなのだろうか。

 

そういう意味で被害感情はあるものの、報復とまでは行かない。ただ自己毀損するだけ。何が失われたのかを教えてやるだけ、としか言いようがない。それで満足なら満足してくれ、としか言いようがない。なら一体何が欲しかったのか理解に苦しむけれど。

 

キリストの苦痛に殉じること、それぐらいならこれで並び立ったのではないだろうか、身体的な苦痛ではないだけましだろうけど。ただことが狂気や精神的な苦痛、価値などと関係する以上、この点での「苦痛」は、尋常ではなかったと思う。既に得たものより失ったものの方がはるかに多い。集団リンチ、と散々書いてきたことは間違っていなかった。ただ自分たちがリンチしていた存在に何かの価値があった、ということは認めたくはないのだろうが。ただそうでなければなぜこんな極端な話になっているのかもわからなくなる。

 

今なら確信するけど、ああいう新聞みたいな囃し立てにのる形で自分が「何か」をしてしまえば、必ず悪い方向に転がっていたと思える。断言しても良い。こうなると自分が「一つの指輪」のようなものなので、これを破壊するまで(というか比較的平衡的な形で自分が生きていけるような何かにするまで)、一貫して、何度でも、繰り返し、自分の方でぶち壊しにしてやるべきだと思った。与えるものがありうるなら、こういう喪失そのものをも惜しみなく与えるつもりではある。

まだ「実際の」暴力はそれほどないだけましではある。これもシミュラークルと言えば済む話だし、「実際の」暴力の模造を示して、実際の暴力そのものが何だったのか示す、ということにしか、結局はこちらのやりうることもないのかもしれないな、と思った。

 

一応家族が周囲にいる。

自分がここにいるということは、彼らを一貫して騙している、ということにしかならない。彼らがモルモットであることを自分は知っているけど、自分でさえそれを知っているだけのモルモットなのだから、目の前にあるのはいつも地獄としか言いようがない、ある種の罪悪感すら感じる。今までそれをそれほど感じなかったのは、それでも何かの、収益なり何かなり、これに見合ったものがありうると思っていたからだけど、最低限のそれすら取り上げられたようだから、結論としてはこれが収容所のようなものだと言わざるを得ない。

自分だけならまだしも家族までモルモットにして弄んでいただけか、と思う。収容所がありうるならここにその先駆的なモデルがある、と示せただけでもよかったのではないだろうか。二度と家族の前で安穏とした表情は取れなくなったよ、ありがたいことに。これで「家族の絆」?自分の家族の方はぶち壊しにしてくれて、この期に及んで薄ら寒い寝言をほざくなら舌を切れ、と思う。それでも安穏と生きるのは「連中」の方ではある、なんという幸福・・・。

 

これも道化のたわ言なのかね?

まだそう思っているのであれば、出来るだけ苦しんで死んでほしいと思った。これで後悔を覚えない者は人間のクズで、地獄に落ちるべきはそういう存在かもしれない。それで、これで天使らしい。何を裁いているのか自分の心に問いかけてみろ、とも思う、まだ見ている何かがいるなら。