適当に書く場所

公開の日記

やる気なし

あえて書くのもおかしい気もするけど、ここは色々な人が見ることのできるブログなのでそういう前提で書こうと思った。誰も見ないかもしれないけど。

 

妄想か何かが酷い。妄想じゃない可能性が高いのも酷い。そして、こういう二つを分けることは、たぶん自覚的にしようとは思えていたし、今でもそうではあるものの、もう「常識ではありえないほど」、そうだとするなら仕組まれている気がするので、ここで意味不明になる。そして、自分の目がその都度操作されているとかではないなら、明らかに単なる妄想とは言えない事実は山ほど目にした。どこにも書いてないけど、こういうの。

 

誰に怒りを向けるべきか。神か、こういうことを具体的に仕組んでいる何かの組織か。

やりたいことをやること、この点に一切変わりはない。ただし、妄想ではないなら、こういう状況はこの「やりたいこと」の条件そのものを根底的に変えている、という感覚は抱く。だからやれなくなる。ただし何を言ってもしょうがない、というあきらめの方が強く、何も打つ手がない。具体的には、PCの中身、テキストファイルや作業ファイル、そしてこの部屋や自分の外出状況などが監視されている、ということ。しかも「不特定多数」に。この点で規模が分からないので、また影響やその影響の位置づけなどもまだ不明瞭なので、あらゆる点で混乱をきたすことになる。そして、何よりディスプレイ上の表示が操作されている、ということ。かつ、このような情報の流出によって、自分に誰も近寄れなくなっている、ということ。これはこちらの内面の問題もあるけど。

 

正直言えばこの種の内面を持っている時点でやっぱりどこかおかしい。怒りと憎悪は、抱こうと思えば抱ける。それはこちらの性根が腐り切っているからなのか、それとも腸の中を脈動するように突然おぞましさの中で煮え立つこの怒りに、何か「正義」だとか、そういう観念にわずかでも似たものがあるからなのか、いずれにせよ「近寄りがたい」のは確か、だと思った。だから隠していたし、それを声高に言えば何かが崩れるのは知っていたので、隠していたにすぎなかった、とも思う。ある程度は。あるいは、それを表に出すにしても、「狂気」という制度上の立ち位置において、鼻で笑い飛ばせる水準には留めておこうとしていた記憶がある。どこが笑えるのか、と今更思う。個人的には笑えるような馬鹿っぽさはあった気もするけれど、今思うとないな。消したから読み返せない。

 

大体、目の前の何か、具体的な現実というより、主に特定の文章や匿名のネットのやり取りを目にすると、体の芯から感情というか、感情と言うよりもっと未分化な力、衝動、激情とひとまず呼ぶこともできるものの、もっと言いがたい、強い衝動が湧くことがある。それは匿名だったり、適当な「あまり見られていないという前提の」場でこそ形にできるもので、公になりすぎると中々難しいものがある。だからひたすらコソコソやることになるものの、かと言って見られすぎないよう、あまり注目を浴びないよう注意していたはずだった。ところが、この「閲覧数」などが操作されていた、ということになる。それは今でも続いている。妄想ではないなら。

 

この衝動についてはなんと呼んだらいいのか。ドーパミン過剰?そうかもしれない。ただもっと、脳内物質がどうとかそういうものでもない気もしてしまう。それよりは無色透明に近いけれど、かと言って弱弱しいというわけでもない。ただ「気概」とは言える。目の前の全てを丸ごと超えてやろう、という類の「気概」。こういうのはどこから湧くのか。なぜ湧くのか。異常に我が強い、とかそれはある。前はそんなことないと思っていたのに、今思えば我が強い。ただそういうことを露呈させるよりはるか手前の無感動でいることが常だったにすぎないだけで。

 

結局、こういうのは3年前よりもっと前にあったとしか言いようがない。19歳ごろからおかしくなったな、と思う。あの時点で人間でいることからは根本的には除外されていた、とも思う。もっと前からそうだったかもしれない、17歳ごろからだいぶおかしかった気もする。そういうこと含めて、結局この臆病とも傲慢とも勇敢ともつかない精神の未分化に由来する、何かの衝動があり、それが身体や思考や言語を突き動かす、という部分がある。

 

今持つべきはそういうものかもしれない。ただし、ここには混迷と野蛮があるのみで、そこから緻密な形を伴った何らかのものを、生み出すとかそれで何か「まとも」な面をしてのうのうと生きることができるとは思えないままではある。そういうものはどこかの段階で辛うじて見出したものの、それが育つ前に、「妄想ではないなら」、根こそぎにされたという感触がある。それでこの迷妄と攻撃性、昂ってはいるものの何がしたいのかわからない感覚にさいなまれることになる。ただしそれは具体的な対象を見出すことをしない、というかそもそもそれを「あまり」しないところにその力の性質がある、という感じはする。対象はある。ただしそれは常に対象を素通りして、背後に流れる渦へとむかうが、この渦は高速回転しながら神の淡を撒き散らしているかのようで、感覚はこの光線の前で、何か欲情して興奮するか、打ちのめされて抵抗の消滅の中で無感動へと退行するしかないかのようではある。

渦、という比喩は最近見出したにすぎないが、この種の大きなものはある時期からは背後には常にあった。あった、ということに一時期からはした、と思う。怒りの対象とすべきは実はこういうもので、「何かの組織」が監視しているとしても、こういうものへの怒りを抱く限りでは、この組織そのものへはこちらも特に思う所はないかもしれない。ただし、この「渦」への怒りには昔なじみのものがある気もするが、そういう極端な抽象ないし魂のように希薄かつ濃密な、充実への怒りと滾るような殺意、殺意としか呼びようがないが、こういう感覚は、監視されている私的領域、ローカルのテキストファイルなどにはやはりあまり出てこない。そこではむしろ特定の志向性が必要とされるが、こういう誰に向けるでもない(ただし何かに向けてはいる)ただの「書きなぐり」においてのみ、出てくる、とは今気づいた。

 

怒りと敵意だけはある、この「渦」と形容する何かに対して。そこから自分は力を剽窃するが、それはこの渦への敵意と殺意、半ば敬意を孕んだ暴力への衝動が特定の読解力を自分に提供する限りではある。その点で暴力性と怒りに由来する透明なグリッドが対象物へと投射されるが、それは対象物が対象物である以前の基底を細かく砕くためにであって、言語がのたうち回る前に釘を突き立て、蒸留された運動性に取り残された物質が引きちぎられる胴体と化し、その裂け目から何が零れ落ちるかを観察するためでもある。こういうのを書きなぐるとすっきりする。

 

書こうと思えばいくらでも書ける。だから意味がない。依然として、こういう言葉から自分の身体と欲望が取り残されたままではある。

とにかく虫唾がはしるが、それは具体的な個人の次元を、標的にするとしても素通りして、まるで人間が人間である前、洞穴の暗闇に由来するような畏れ、ないしその怖れを抱いていることへの羞恥に由来するような、そういう後味の悪さがあり、これが未だに物質の中を血流のように貫いていることがいかに全般的な無気力を引き起こしているかということへの全身全霊の「衝動」ではある。それはこれと同一化したい、というだけではなく、また反発したいだけでもなく、その両義性というだけでもなく、ただ圧倒されるが、ただし怒りと興奮と敬意と、息が詰まるような無感動の中で、一つの志向性へと力が結集する、そういう感覚ではあると思った。

 

むかむかして適当に書きなぐる。ただし「誰それ」に向かうのではなく、また自分に向かうのでもなく、「組織」に向かうでもなく、誰にも向けたくないからありもしないやつに当たり散らしてるだけ、とかになる。ある意味安全だからまだましか・・。

 

とにかくむかつく。どうしたらいいんだろう・・。

 

一応妄想の中では自分が「天使」ということになってはいるものの、どうしろというのか。こうしてタイピングやってるだけで何の意味が?ただし怒り、感情はある。怒りというより「感情」、いや感情というほどのものでもない、志向性?力?未分化な放出。前にもこういうのは書いた記憶がある。なぜかブログの方がこういうのは出てくるからアレだなあ、と思った。