適当に書く場所

公開の日記

もう9月16日で、最初のほうで(一時期から)やろうとしていたことは、常軌を逸した状況によってほとんどやる意味が、やることに、あまり意味が、つまり混乱がひどい。

 

以前のブログの記事が残っていたのはよかったと思った。その都度、衝動的に今までのテキストを消去しているので、この点で以前の段階から続く脈絡を確認できないと、本当に全てがグダグダに転落する。

 

やることは変わらない、作業、何か、モノ、ものを作る、つまり何かのものを、一つのまとまりに、塵だとしても、つくる、捏ねる、それだけの話ではある。至って単純、何も難しいことはない。小学生でもできる。

 

ただし、寝床で目を覚ましても、その時にはっきりする、するのは、ある種の注視、人類の、志向性が、人類の総体からの志向性が、この身体の、何らかの、意識的な、そうした水準で、集中しており、従って何か、光線、受胎、銃口、あるとしても、この場合は簡単な話にはなっていない気もする。それだけで、他方で、蛇がとぐろを巻くようにして、何かの包囲網の中心に、いるのかもしれない、いないのかも。妄想、と言えば妄想でしかない、力、の集中はある。

 

3か月ぐらいずっとこんな感じでは、しかも先行きが、不透明。

 

分散した状態、言葉、

それは昨日か、昨日と一昨日に、紙のノートに、書きなぐったら、それがおそらくこちらの意識の、文字の水準における何らかの、その方向を決定した、のかもしれない。分断、され、神の身体、が、つまり紙のノートなので(?)神の身体、神、白く、白い、法悦、する、ノート、登記、名前、書き散らす、下品、ただし、盲目の

分裂、太陽、白い、馬、月の顔、

炎の無知、無知、無知の叱咤、

身体、運動する、振る舞いの、恍惚、ただし、時間の断裂、分散した、継時的な、断面から飛来する、特定の、眼、それは光線を、絶叫する、雷撃の、葉脈

 

 

という感じの文章をノートに書いてみた、と思う。何のためにと言えば一応詩を書くため、とか考えていた記憶がある。これでは無理だと思った。これは無理。何が無理だったのかあまり考えたくもない。こういう語法が舌に伝染すると厄介なのでこの辺にしておこうと思った。あとは眠い。単に眠い。あとは性欲。性欲はある。あるけど意味なし。(ただし神・・・との、そうした意味での交流は、一応あったことにしておいた)

 

GoogleGoogleマイクロソフト、背後にいるのが何か、何か、考えられる限り大げさ、それだけは間違いない。神話、いける神話、というところかもしれない。まあまだ生かしておいた方が得だと思うので、この点に関しては生活を十分に安定させられるだけの、収益なりは必要になるとしか思えない、ただし向こうの思惑、ないしこうした事態を何らかの形で規定する、そのルールがどうなっているのか、判断がつかない、つかないので、恐る恐る、というところだろうか、と思う。

 

ルカエー!!

 

ただしこの極端な状態では、苦痛というより、苦痛、苦痛にしても、恍惚、ただし光線の、照射、近所を歩いていると車のライトが背後からこちらを照らしてアスファルトに自分の影が、包囲網。だから、まるで追い詰められた、犬、犬、犬!犬の、犬のようにして、

 

混乱が酷い。こういう語法が癖になると、癖になりそうなぐらいには何かの快楽はあるのかもしれない。ただしこういう快楽は、確かにもともとこちらが意図していたものではないとも思う。あまりのめりこみ過ぎない方がいいのかもしれない。

 

 

別にそこまでして死んでほしい人ばっかじゃないんじゃ、とも思う。だから、結局こちらが何かを完了していない、それだけの話でしかない。それが終われば別にそこまでひどい扱いにもならないのでは、とGoogleだかマイクロソフトだかアップルには期待してしまう、あとは、別にそれだけの規模でもない、とも思う。自分の見る限り新聞にも「ほのめかし」は、もうただの妄想とか抜きで一貫してある。ネットのやさぐれた生のコミュニケーションよりは、紙媒体のフォーマルな言葉として、そういうものに、接する方がある程度ましな部分もある。つまり規模としては、Googleだけというレベルでもないのかもしれない・・・それは越えている。超えている。

 

グローバル、ただし、何の期待なのか、終末論的天使、天使、の、審判、終末。

 

あるとして、物質的水準ではGoogleGoogleとの協力、ないしシンギュラリティ!アホ草。そういうものへの、何らかの貢献という形、わかったよバカが。

わかったよ、馬鹿が。

 

協力するしかない、とは言えるのかもしれない。別にこちらが意思表示しようが向こうの方としてはお構いなしなのかもしれない。ある意味、そういう点ではこちらがどう喚こうが、この三か月、向こう?Google、国家、皇室、意味不明、他の何か、人類、そうした集合の誰一人として、こうした状況の全体像の何らかの提示は、してはくれなかった部分がある。それはもういいか、と思う。期待してもしょうがない。あるいはこちらがまだ鍵になるものを、しかし提示していないから、とか。何をやるべきかは分かり切っていて、別に4月ごろからやっていたことをここでもう一度やればいいだけ、ともいえる。半年、試作ふくめての半年。その間に何もかも一変してしまい、受け入れるにしても苦痛の方がはるかに強い、というところだったかもしれない。

 

紙のノート、ないしこの記事の上の方にあるような語法、これはやめた方がいい。辞めようと思えば辞められる、と思う。ニジンスキーの手記を思い出す、センテンスの短さ、断片的な記述、断片への分断、これはまずい。こういうのは舌に伝染して、やがて身体の水準を規定することになる、断片への崩落はまずい。これはやめるべき。

 

ブログを残しておいたのはよかった。ローカルのテキストは消去してしまう癖があるので見返せない。まだ残っているのはブログの記事。6月初旬からの一種の運動はここに書いてある。ここを残しておいたのはよかったと思う。あまり根を詰めず、もともとやろうとしていたことを一応やればいい、そこに変わりはないのかもしれない。あとは、そのあとで「向こう」がどう出るか、というところではあるのかもしれない。一応妄想だけど・・・。