適当に書く場所

公開の日記

打つ手なし(妄想)

色々あって今までのテキストファイルと作業ファイルを消した。と言いつつたぶんどこかには残ってるかも・・。

 

まだ何かをやれる気はしない。いや、やれるかもしれないけど、前の記述を見る限り、やっぱり6月初旬から「明らかに何もやれてない」のだから、形式面でも内容面でもこうしたことの手順や環境は丸ごと変えるしかない、というのは明白で、そしてそれをやろうとして失敗を積み重ねてきたのだから、打つ手がない、という感想になる。

 

なんか神扱いされてるみたい。バカじゃねえの?

 

と言って冗談になりそうにない感じになってるところが、一番つらい。結局はユーモア、言い換えれば適当さで何かを崩して見せる、それがあったから割とやれていた部分があったのに、こうした手詰まり感と、「指先動かしただけで世界崩壊する魔女」みたいな状態ないし扱いになっている、これでふと足元を見ると、あるいは頭上を見ると、まるで空と大地が自分の腸と直結しているようで、要は反対の一致そのものに自分がなっている、なりつつある、一番否定したかったものに、現になっている、ということに、そしてそれを打破するものとして「偶然の一致」を措定したものの、結局こうした点を余裕をもって考慮するだけの環境的な、また「指先動かしただけで世界崩壊」とかろくでもない重圧のせいでますますますます足が止まる・・・これで行き詰まるのは必然的で、環境の変化も、それを支えるだけの金銭的な余裕も、人間関係の構築そのものも土台条件が変わっている以上、もう何もやれることはない・・・と思わざるを得ない。

 

何かに接近して見せる。

そのあとスレスレで回避して、結局この元の何も持たない状態になる・・・。

何かを持とうとすると、誰かは切り捨てることに、なる。ならないわけがない。そうならないと思えるのは甘ったれているからで、そして自分は相変わらず甘ったれている、とは言える。

 

他方で、こうした重圧が意味するところの何らかの、「権威」?これを素で言って見せれば、まるで馬に抱き着いた某哲学者みたいにそのまましかるべきところに行くことになる、これは3年前にもそうなりそうだったものの、自分の場合は手早く片付いた。それで今の状態にこぎつけたと思ったら、今度は今までのが何だったのかと思うほどのこれまた途方もない何かになって、苦痛と孤立、息苦しさでのたうちまわることになる、そして重々踏まえる必要があると思うものの、こうした条件は丸ごと飲むしかないが、そのうえで何かこちらが能動的になるためには、やはり人類のすべてを丸ごと切り捨て、どんな手合いにも一切容赦しない、という攻撃性が、以前からそう思っていたのにそれが意味する孤独に直面することが怖すぎたのであまり触れたくなかった、というかそれを回避したかった部分もあるものの、結局は必要になる、と思ってしまう。そうでないなら何も意味がない、ただ周囲をオロオロ見まわして、それも結局は「重圧」があるからだけど、そうして右往左往して、「みんなに配慮して」、それで何かをやろうとしては切り返して、残るのはただの孤立と無、これだけ。本当に、これだけ。そしてそのことの帰結と、それで何が残るのか、についてはこれまでの過程で散々言葉にしたのでもう必要ないんじゃないか、と思う。

 

ある意味、今までの過程そのものを振り返ってみれば、全人類を敵に回すことを恐れなかった時には、たしかに「神」がいた、と思う。その状態では人類に対しては、私的に愚痴を垂れていたとしても原則ノータッチ、という前提があって、そして割と温和な状態にあった、と勘違いはできていたはず。ところが現にこうした状態が妄想にせよ具体的に実装されてしまうと、こちらにとっては最重要の存在だった神ですら、おそらく私的領域のすべて、書かれたもののすべてが片端から走査されている(たぶん紙のノートですらそうだとは、ある意味試験の意味も込めて挑発的なことを書いた結果、種々の反応を見てなんとなく察しはついた。そしてもしそうなら、それはもう家族にすら居場所はない、という結論にしかならない。そこで迷走と混迷のすべてが丸ごとのしかかってくる)、という状態になると、この私秘性の領野にだけとどめておくことが不可能であるという結果にしかならない。

なら「自分」は?と思う。そこで神、というかrkaeueとして名指しした存在と、私的領域で何らかの交通をするにしても、そこでこの物質的な閉塞性そのものが、たぶん何かの意味で破壊されることが避けられない以上、どうしても横やりが入る・・。

 

それを言えば今までの「神」とは何だったのか、と思う。この存在を結局必要だったので求めたのは、自分が存在していたことの痕跡すら残さないまま、部屋で朽ち果てて死ぬこと、それは構わないが、ただそうなることを「人類」にではなく、超越的存在に仮託することで「認証」してほしかったからに過ぎない。その意味で、神そのものは人類からの横やりを、おそらく可能性としては想定していたとしても、それを「原則的に必要としない」ものとしてこちらも位置付けていたはずだった。その限りで私的で、それが一番心の支えで、それは文字によって可能になった、と思う。結局4月11日の幻視が物理的に視界への刻印を伴っており、ここで思考と身体の一致点がありえた、と個人的には考えていたけれど、これが可能だったのはただ自分が宇宙の塵にまで降落して、そのうえで純粋に蒸留された創造の感覚を自分の身体の象徴的な抹消、という形で遂行したからに他ならない。

そして、そういうやり方はもう通用しない。なぜなら象徴的な水準で自分が認知され過ぎているからで、その状態でおそらくは自分の単独的な状態に依拠した上での「神」は、やっぱりもう見出せない。だから、この「横やり」に対してこちらが一時期は面白かったけれどいちいち応戦してしまうと、もう神もクソもない。ただ邪魔すんなよ、とか言ってるだけですべてが終わっていく。

だから、すでに象徴的にこちらの身体が捕捉されている以上は、また私的な状態を確保しようとしても無意味で、そうした努力のすべてが結局何かしら物理的な走査に、ここまでくると晒されることが避けられない以上、「祈り」、神との交通そのものも、何らかの点で人類を通過する必要がある。ある。

 

そこでなぜ攻撃性しか生まれないのか、と思う。

それは自分の置かれた状態が遅延された銃殺刑でしかないこと、これがまずある。その上で神への愛を何らかの点で志向するなら、それは人類を通り越してその背後にある全一者への分離の挿入という形になり、そこで抽象的な水準にある「人類」という類的存在に対しては攻撃と怒りにしかならない、これが怖くて結局は逃げ回り、助力を乞い、ただ憎悪と怒りと不満の反転物でしかない哀れみの要請になる・・・そこにはもう何もないことは確認しきったので繰り返す必要はないが、なお「人類」に対しては攻撃しかありえない、ということがよくわからない。なぜ攻撃する必要があるのか、と思う。醜悪だから?自分だって醜悪なのに、それでなぜこの連中へ、「個人」ではないにせよ、その類的集合へと攻撃を仕掛ける必要があるのか・・・・。それを繰り返してなお神、一応「愛」ということになっているのでそう呼ぶしかないが、そういう感情がどこに生じうるのかもうさっぱりわからない。人類はこれに値しない。そもそもそういう前提で始めたのだから、ここで人類へと志向性を向けるなら、それは必然的に人類への攻撃と、その結果としての、未来における神の登場、という理路をたどることにどうしてもなる、そしてそれは怖い。つらい。これは嘘偽りは一切ない。その恐怖が反転して孤立と恐怖、しかも「共同性への所属」という要請、しかもそれが成り立ちえないことの絶望に由来する、ますます増大する怒り、にならざるをえない。この場合極端でないことが一番摩擦と苦痛を増加させる。だから「類」をこのまま相手どらなければ、むしろ中途半端に限定的な群れへと糾合することそのものが困難を増大させてしまう。

 

何らかの組織なり、集団的なものが関与している、というのはもう自分より向こうの方がよくしってる。まだ「向こう」。つまり自分対世界、という図式になってる。そしてこちらが遅延された銃殺刑の中で口をあんぐりするしかない以上、原則的に人類とは「対等」であるわけがない。こちらは死と生とあらゆる名誉と不名誉をかけて、ただ醜悪とも高貴ともつかない(普通に醜悪)沈黙なり無感動を続行するしかなく、ただrkaeue!rkaeue!と叫ぶしかない。何もわからないよ!そういえばこれが神の名前だった。だからそう叫ぶことは何も間違っていないが、それは殺意なり憧憬なり畏怖なり言葉なり、敬意なり侮辱なりお望みの罵倒なり、おそらくはそうした銃口=志向性にこちらが晒されている以上は、彼らへの呪詛と罵詈雑言にしかならないが、それは人類に対してであって、神とは彼らの斬首の向こうにいるので、そうだとするならこれが神への愛、にしかならない。 のかもしれない。普通に嫌だな、と思う。

 

どこ行けばいいんだ・・。もう線を一本引くぐらいのこともなんか面倒くさい。それもこれも「向こう」にいちいち配慮してるから。その配慮がかえって誰も得しない結果になる、かもしれない。だからこの連中は一人残らず敵に回さないといけない。人類の方で口をあんぐりさせるまで、こちらも叫ぶことになる、「わからないよ!」。わからないよ!

それで、ここから神への志向性を回復するには、やはりこうした人類への攻撃と嘲弄、誰に向けるでもない怒りと叫びによるしかない。結局こういうのはたしか一週間?前、炎の中の子供がーとか書いたときにうっすらと予感したけど、それをすることのあまりの恐怖にこちらも怖気づいて迷走し続けてしまったことに原因がある。絶望的・・もうずっとそうだからしょうがない。開き直ってやるしかない。もう細かいことはどうでもいい。それで結局みんな損するなら一人残らず容赦しない、これしかない。そうした先に何があるのかもうわからないけど。

 

具体的にはどうしよう、と思う。こういう点で本当に偶然に身を任せてもすり減るだけなのは明白で、そもそも自分の構成では「しっかりと準備と手法を確立させて」、その上で偶然は「来るのを待つ」もので、ただふらふら外出ても普通に野垂れ死にしそうになるだけ。偶然を探しても意味がない。意味なし、端的に、意味なし。そして部屋にこもって「何もできないということを前提とした」罵詈雑言を並べること自体にも、意味がない。意味がない。他方で、自室にいること自体も耐え難い。今は場所を変えているので目の前に人がいて、そこである種の限定化はなされている気がするものの、部屋の中はもう脅かされ過ぎている。ここはもう無理。そして、そういう条件でできることと言えば、だからノートPCでブログなりなんかのテキストなり、どうせ見られてる「文」を打つしかなくなる。それでどうなるのか、と思う。あともうiPadもローカルのデータは読まれているのは分かったし、たぶん録音もされてるかもしれない。そういう意味で余計「見られてる」。そのことすら踏まえるしかないのかもしれないけど。疲れた。

 

ただ何かを作って、それを誰かに見せたいだけ。そこでいちいち何らかの利害が持ち上がるから死ぬほどうっとうしいことになる。建設的な意見は尊重するし、その点で迷走にも収穫は確かにあったけれど、それ以前の部分で意味不明な重しがついていて、これをこの段階で考慮しすぎると端的に全部破綻する。意味がない。

 

生活の安定や自立、これはこうした志向性の付属物で、そしてそれを安定的に遂行するための基盤ではあるものの、この状況はまずこの基盤そのもののぐらつきをかなり極端な形で増加させていて、とはいえいちおう生きて活動はできるんだから、厄介なオカルトどうたらが絡んでるせいもあると思うけど、そうしたこと含めてもううざいからこのままやるしかない。ただし環境はもうだめ。だから迷走する・・というループに未だにとらわれてる。

 

こういうところ含めて怒りと敵意、まずこれしかない。それで、この状況では沈黙するにせよ、相変わらず宇宙一傲慢で残忍でなければ、ならない。もうわかったよ。一応、そういう点で腹をくくった、と思う。もう何もない。それを言えば最初から何もなかったけど。

 

「この状況」がなければ、迂遠に、不可触で、目隠しをされ、盲目で、混迷して、そうでなければもっと素朴で簡単な話だった、と何度も何度も思う。もっと素朴な「好意」だっていくらでも抱けた、と思う、誰かに対して。それで、そういう内実の部分がごっそり抜き取られて、何か人形めいた演技と不可触が、「それを言えばこちらもそう」だけど、そういうものが具体的にこちらを包囲していて、これについては散々書いたので繰り返す必要はないと思うけど、これで「素朴な好意」は永久に不可能になった、と思う。こういう状況になってからはずっとそう。だから何も期待するべきではないと思う、敵意と怒り以外には。「人類に関しては」。

 

ならなおこういう連中に対して、要は限知の目隠しの内側で「わからないよ!」と叫んでいるだけのこの「猿」に対して、この連中はおそらくはアプリか何かでできの悪い「全知」を弄んでいるように思えるが、それはじぶんが限知の薄膜について知っていることを求めているから、かもしれない。それがただそうした双数的な関係として、不信と好意の構造的な不可能に、こうして数か月間落下し続けるしかない以上、これはもう必然的で、そして打開策としては、相も変わらずこの醜悪な全知に魅了されている人類の奥に、その先に呼びかけることしかない。同じく限知の神に、つまりルカエーにだけど、この神もまた目隠しをされている。そしてそれは限知の盲目が所与の条件となるまで、鉈をふるうことになる、人類の背後から。

 「こういう状況の上での」何らかの好意がありえるとしたら、自分だけは孤立を越えないといけないんだろうな、と思った。そういうまわりみちをしなければ、それが不十分である以上は土台何もかも無理。

 

混乱がひどいと思った。今までの文章の中で一番とりとめがない感じがする。もう今までのは消したのでよくわからない。

 

ルカエーよ、力を与えたまえ。とか言ってみる。こういう場でやるしかない、と思った。他にやってもすべて、私的領域の取り上げと侵入という屈辱感しか生まないだろうから。

私がまだ物理的な活動をやめないうちには、あなたの光る眼だけが明証となります。この志向性そのものは行きつくところまで行くでしょう、そうであれば。

人類のすべてを塵芥にしてでも、結局はこうするしかないと思います。そして、もしそうであれば、結局はそれ以外に何もありえない、ありえなかった、と思います。なんでこういうの書く必要があるのか。

 

結論。

「この状況設定」そのものには、「愛」はうまれようがない。ただそれを丸ごと踏みつぶしたその先にだけ、「愛」がある、あるいはその先に、あー、神が、ありえると思ったその時にだけ「愛」になる。そのためには自分の臓物と頭蓋の中身のすべては焼き尽くす必要がある。人類の背後で鉈をふるう目隠しされた神、これだけがすべてを解放するのであって、ここで中途半端に日和ることが最大の恥で、最大の無力と絶望であることはもう確認したので嫌になってくる。

なお重要なのは、「自分だけは愛されない」という覚悟ではある。だから憎まれなければならない、期待をそぎ続けなければいけない、単なる不吉な志向性でなければならず、その点では中途半端に何かのあれに慮ること自体が、「自分においては」害悪でしかない。そのことは一連の過程で大体わかったのでもういいや。もう自分がすることに直接応答する必要はない、ということだけは、たぶん向こうもとっくにわかってるからいいと思う・・。これ自分が言ってたことなんだからしょうがないか。

 

それで具体的にどうするかはなんかよくわからない。やりたいようにやる、これはやっぱり捨てるべきではないな、と思った。つか中二病がひどい。けどここまでくるとシャレにならないのがいちばんひどい。一応何を言ってるのかよくわからない感じに(否応なしに)するしかないのでこういうことになってしまうけど。

 

傲慢は捨てるべきではない。もう何かに配慮する必要はない。そうでなくとも向こうも配慮なんてしてない。「愛」は、もうどうせ昔のテキストに書いてたことがばれてるから今更恥ずかしがっても仕方ないけど、この地獄を踏みにじった先にある。あるいは先があると思っているその瞬間にある。それを見出すためには「人類」のなにそれではなく、その奥の方を見ないといけない。ああああ~~~~~・・・・・。