適当に書く場所

公開の日記

10/13

別に今初めて確認することでもないけれど、やっぱり天使であることは間違いない。

 

ここまで話が極端になっているのであれば、ある種の承認のポジションとしての「神」には、良かれあしかれいたのだろうと思う、その最初から。ただし自分含めて誰も、自分含めてこの世界がどうなるかとか、自分が現れたことの意味やその先行きについては判断などできなかったと思う、それだけ特異な存在ではあったと思う。この点に関しては例外なく誰もが間違う、自分含めて。

 

比喩としてのブラックホールとは散々書いてきたものの、確かにある種の人文学的、ないし文化的な領域における特異点ではある。それをしてキリストの再臨とか、個人的には否定しようがなくなったので素朴に書くけど、確かに熾天使の部類であること、またケツァルコアトルとか天照大神とかディオニュソスとかオーディンとか、いくらでもそうした神の名や性質を列挙することもできるかもしれない。ならなんだよとか言いたくなるけど。あまりに包摂範囲が無数なので、ひっくるめて神なんだろうけど、名前そのものが決定できていない。

 

他方で自分は自分をルカエーの使徒だとは思っている。ガブリエル、ならそれはルカエーの使徒「だった」のだろうと思う、あるいはこれからそういうことになるのかもしれない。

 

この点に関して明らかに冗談ではないレベルの存在になっているけれど、その極端な大きさと極端な小ささ、何であれ未だに実家の一階のせまっ苦しい部屋などにいるのだから、その狭さには尋常ではないものがあるけれども、こうしたことを含めて見ても単独性と普遍性の一致とかいうのは言葉通りになっているのかもしれない、ただしだからこの地点に不動でいることはそれとは根本的には関係がない。今までも外にでて洒落にならない偶然の一致は結構あったかと思うし、その時でさえ書くものの性質に何か変化があったわけでもない、また実家にいるから四六時中書いてるというわけでもないし。

 

今までの足跡の数多くのものが、自分の神性を証ているように思える。何がどうしてこうなったのか、何度でも頭を抱えたくなる、だってこういう事態が露呈してからたぶんまだ4か月程度だし。それ以前にありえたものの方が、短い期間とは言え自分にとってはこの上なく大事に思えるものもあった。

「釈明」の必要がたぶんある程度消失したので、取り立てて長く書くこともなくなったような気がする。自分をガブリエルだと思うのは、創作、子供、また最後の審判、隠喩、そうした主題とその天使の性質がシームレスに一致しているように思えるからで、またそれ以前に使っていたアニメアイコンのキャラがその顕現だったとかいう冗談みたいな証拠もある、ありえないでしょ・・。

 

否定的な領域に留まること自体は概ねひと段落ついたのかもしれない。そもそも否定的というのは言語的なアブジェクションであるということで、身体的には誰もがそうであるようにただの肉体でしかない。ロゴス、言葉そのものが何かの点で自分に受胎していて、その出産そのものがだいぶ前からこちらの根底にあったことも何も変わってはいない。熾天使であること自体は以前には確信というよりはその疑いが濃厚、みたいなニュアンスに過ぎなかったものの、結局その天使であることの自覚を得るには、それこそ今まで踏破してきた流れの中で、何が結局残ったのか、を再三確認して、そこで可能性の振れ幅を規定する包括範囲の軸にそれがあった、ということを実感できたからだし、その上で諸々の歴史上の「いわれ」などを隠喩的な支持体として持つことで、初めて狂気など抜きの割と安穏とした「確信」に至ったように思える。信というより理解に近い。

 

なぜこんな存在が生まれたのかについて、何か科学的な説明はつけられるのかまだついていないのかつけようとしているけど個人的には目にしていないだけなのか、ともあれそういう意味で提供できるものは提供するし、ただしそれはこちらの安全や着実な歩行と不可分であることは何度でも記しておきたい。別に今まであった暗黙の注視が、必ずしも鬱陶しいものだけではなく安心できるものもあったことは確かだし。ただし言葉よりは実際に傍に近づいてくれたことが一番うれしかったけれど。

 

創作に関して言えば、別にやることは変わっていない、紆余曲折はあるけどそれは今までと同じ。

前からそうだったし今でもそうだけど、結局言葉しかない。それだけで精神的には生きているし、根底的にはこれが音楽的なものとも関与するのは間違いない。

 

また創作そのものを取り巻く何かの流れについては、恐らく平衡的な形で取りあえずばらばらにならないように流れは調節できたんじゃないかと思う。ある意味内容自体は個人の好きなもの、好きだったものでいいとしか思えないし、そこでどうなのかが一貫して問題だった気もするけど、それを取り巻く環境やコミュニケーションのあり方の方にこそ、この点では基盤があるとしか言いようがない。それだけでどうなるものでもない気もする。

 

やる気はある。

あるけど「配慮」が・・・というところでまたずっと、ある意味これのためだけにひたすら無しかなかったように思う。そういうのは他者の領域との接点に常に関わるので、政治的なもの含めて他者の審級に、今までのように具体的なものが一つもなければ、ただただ混乱が深まるだけとも思える。他者の抹消、最初からそれだけだったとも言える。

こうした点で内容のレベルに関わらない脱出口は見出した部分があるので、それは内容を描くとか描かないとかではないとしか思えないので、逆に作れそうと言えば作れそうかもしれない、ただそれだけのことなのに、だから重圧などを忌避し続けていたのはそのことが大きかったかもしれない。