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公開の日記

誰もみてない

冷静に考えて誰も見てない気もする。

この点に関しては本当に驚くべきほどに直接的な証拠が視界に入っていない、数回を除けば。それは単に特定のルールで縛りを設けている、というだけでは明らかにない。自分の存在そのものが歴史において極めて特異だから、という話にすぎないのかもしれない、あまりに特異なので誰もがその前で言語を絶するようなもの。

 

以前の記事にもあるように、結局のところ視覚的な表象に関してはそれを描くに際しての一種の政治的配慮が一貫して足かせにあり、個人的にはこれは共同的な読解の体制と関係するような気がするので、ある意味孤立しているだけなら永久に答え等出せず、その点での一種の信頼の喪失が一貫してこちらの無気力と怒りに通じる、その点はもういい。自分だけではどうしようもないし、信頼してるとかしてないとか言おうが問答無用で、こちらに決定権などはない、無力。

 

原則的に、この状態で手を出せそうなのは文章に関わるものと音楽ぐらいで、それだけなら特に何の害もない気もする、それすら駄目とか言われそうだけど。大体それをしたところで手慰み以外の意味などないし、いやむしろそれを見られていることに由来する奇妙な配慮こそが一番鬱陶しい。だからこそ自分自身にそれを問いかけるまえに、他人のややこしい何らかの知覚こそが障害になってしまう、これにしても自分ひとりではどうしようもない、いくらか対策は持つとしても気休めにしかならない。

 

信頼、希望、未来への何らかの志向、すべて自分にはない。この辺りに関しては、他人にまつわる全てが鬱陶しい。ただ猜疑と信頼の不可能だけが感じ取れるだけで、一生このままならもういい、としか言いようがない。この上でまだ創作がどうなどと言えると思う方がはるかに頭がおかしいと思う。

あまりに下らない出来事の連鎖に怒りしかない。ただただ怒りしかない、どうしようもない。こんなことになるのであれば一生沈黙していればよかった、と思う。ところが既に語りはゴミのように堆積しているので、焼却処分にせよ落とし前はつける必要がある気もする、他人への配慮は例によって鬱陶しいので、自分の中でもう一度殻にこもる必要があるのかもしれないとも思う、それでますます感情が冷淡になっていく、それで誰が損するのか、と思う。

 

一切が奇妙で、とてつもなく馬鹿げた出来事が連続して起き続けていたことだけはわかる、それで誰も得なんぞしてないか、一種の興奮に由来する特定の活動がいくらか活性化されたぐらいで、それでどうなるのか?ともすれば極端な虚無がすぐ後ろに控えてこちらの意欲と情動のすべてを速やかに消去していく、こうした状況でなお自分自身に一種の喜びを取り戻せると思えるには今以上の狂気が必要になる気もする。

それが虚無なら一切をぶち壊しにしてやることにためらいなどはないが、こういうことに基づく絶望にはもう慣れたし、苦痛などはそれが精神的であればすでに何が苦痛かも分からなくなっている感じもする、最低でも怒り、最高でも戸惑い、そのような域の中を取りとめもなく振動しているだけで、ここから何らかの喜びや安泰などは、昔からそうだったとはいえ見出しようもない。

恐らくこれに終わりはない気もするので、そうならとっくに振り切れた苦痛の中をますます冷淡になっていく感情だけで、それで何が残るのか、と思う。ただただ茫然自失とするような不快感がのこる 、元々こんなことを一々どうこうするような人間ではなかったのに、今ではどうせ隠されもしないだろう、という不信へのあてつけもあって獣であることに戸惑いもなくなる、それで、これで何が残るのか、と思う。