適当に書く場所

公開の日記

状況まとめ

1.
2016年6月。
確かにあの時は狂人だったと思うけれど、そのような「狂気」を一体どのような回路で解釈すべきか、自分には現在に至るまで迷いがあったとは思える。精神医学とか精神分析とか、そういう「インテリ言語」の内部で醸成された解釈の体系、そこに依拠する心情は強く自分を規定していたし、それは今でも同じではある、ある程度は。しかし、こういう体系の諸言語へと自分の体験や発語行為を変換しようとすることによって、わかるものもわからなくなるものもあったのは確かであって、その点でこれらの体系が有用だったのは間違いない。とはいえ、それは結局その体系からの離脱、あるいはその体系内における概念を、いわば盗用し自分の利益のために奪い取るのでなければ、端的にこの人生を・・・少なくともよりよく生きることはどうも不可能に思える。そうでなければ何なのか、自分は自分を語る言葉を、あの「医者」に終生依存しなければならないのか。そうかもしれない。それだけならまだいい。しかし、そうした依存が結局のところ、自分を相も変わらず「病人」として自己規定し、その限りで医療、福祉、包摂などのシステムへと組み込まれることへと進展し、また「経験上」、そうしたシステムがあまり自分の欲望、例えばあの「狂気」とやらで見出したと思った、神とかなんとかに依拠した主体化ないし特定の創作や諸活動の、阻害へと向かいがちだったことも実感としてはある。
単純にこの人生、「妄想」ないし狂気抜きで見れば、あるいはそれらを治療対象として位置づけ、あくまで「普通」の生活、例えば工場労働とか派遣労働(それ以外にないし)とかに向かうべきもの、と見れば、一体そこに何があるのかと思ってしまう。もちろんそれ以外にないならそれでいいし、そういう選択自体は悪くはない、不満があるとしても構造的に解決すべきだとは思う。しかし「良くて手取り11万」が、一生続く可能性が高い。ごく一般的に見て、他の可能性があるならそちらに行くべきという話に過ぎない部分もある。手取り11万。A型事業所なら精々月収6万ではある。それしかないならそれでいいかもしれない。
ただし、結局はそういうことになるけれど、3年前に見出したものがあるとして、それに未だ強く吸引されるのであれば、自分はこれをうち捨て、「手取り11万」の人生を一生送るべき、ということになるのだろうか。簡単に予想できるのは、「工場から帰ってネット見ながらビール」、そういう人生をずっと送る、ということではある。もちろん他にやりたいことがあるならそのついでに、でもいいのかもしれない。普通の人ならそうする。しかし、自分にとって「一生手取り11万」にはしがみつく価値がないとどうしても感じてしまう。それは、そう思うだけのもっと価値あるものを、単に3年前に感じてしまったからだと思うけれど、妄想だとしても。

 

2.
2016年3月。
特にどうというわけでもないけれど、要はこの時期に神との遭遇を明らかに経験したと思える。思っている。違うかもしれない。ただそれは「そう感じた」だけのものでしかない。それを言えば何でもそうではある。簡単に言えば、この段階で自分は神・・・全一者、これを追体験したと思える。それは精神医学的には緊張病性興奮などで言い表せるのだろうけど、自分はこれをあくまで自分の諸体系の内部で思考することをやめるつもりはない。

神、全一者。これは反対の一致の神であって、対立物が直接的に同一のものとして現れる状態と見ている。善と悪の同一性など。
他方で、自分は産出者と名付けた神を、ほぼ同時期に見出した。少なくとも言葉の上では。これは簡単に言えば偶然の一致の神であって、反対の一致の反対ではある。

この種の存在への思考は続いている・・・というより、このような神学的構成に基づく認識図式は、そもそも対象ではなく今では自分が思考することの基盤でもあり、従って単なる妄想として片付けようにも、そのようなことの成否を判断する基準そのものなのだから、もう疑えない。この話はどうでもいい。

 

3.
いずれにせよ、単に仕事をクビになったんだからしょうがない。妄想だとしても、それをネタにでもして創作するしかない。どう収入を得るか。

 

4.
「狂気」を何か発話の回路として用いることは、恐らく出来なくなっているとみてよいのかもしれない。そこに依拠する形で、ありていにいえば「変なこと」もいくらでも言える部分もあったけれど、こうした例外的な立ち位置は速やかに除去されていくと思われる、というか単に「お薬」などによって、物理的に沈黙ないし思考の停止へと向かわされるものではある。つまりそこには「狂気は真理を証言する」みたいな形での、何らかの「意味ある」内容をくみ取りうる解釈のコードは存在しない。発話が認められるとしても、何らかの実質的内容を予め除去されたものとして、にすぎない。それはそれで正しいはずだと思うものの、それだけではこちらにとって何か物足りないものがあることも事実ではある。しかし発話内容より発話行為の方がよっぽど「深い」ことはさすがに自覚はしているものの・・・。
こうした状況下にあって、なお自分が語りうるものが・・・そして、あのような体験をただの病気、もちろんただの病気ではあるものの、そこからこうして肯定的な実質を、あるいは今まさにこうして駄文を書き連ね続けることができていること自体を担保してもらっている以上、これを捨てるなどというのは論外ではある。それは、だから医学ないし何らかの秩序の外部に包摂的に位置づけられたものとしての、「狂気」という言葉自体を、ある程度は捨てることを意味する。つまり狂人という「肩書」において発話することは断念する必要がある。狂気に定位しつづけてしまえば、待っているのは「お薬」である。あるいは、昔はこうした「狂気」に定位した発話自体を、医学による臨床的な記述に変換してもらうことを、アイデンティティの確保として探していた部分はある。正直これは、少なくとも医学の領域に「狂人」として回帰しようとする際の、最大のモチベーションとして、個人的には考えている部分もある。ならこれは顧みるべきではない。

 

5.
神秘家ということにすればいい。ならそれは宗教ではあるものの、ここまで、自滅的なほど独りよがりな思弁の総体を、まさか他人に伝え、そこから共有可能な形式を・・・などとは、とても思えない。それは不可能だししようとするべきでもない。しかし「狂気の回路」は使えない。だから、ある程度は言語的な制度上の立ち位置を表明する必要もある、のかもしれない。ごく一般的に、「創作」ということにすれば許される・・・かもしれない。狂気、これはもう使えない。狂人、これはただの治療対象でしかない。とはいえ言葉、これだけがある、ある程度は。

 

6.
言葉、これしかない。言葉、これだけはまだ何かの奔流のように止まることを知らない。ただしこれをどう位置づけるべきか、それもまたわからない。
2019年3月以降に関していえば、このような言葉はすべて私的な日記用テキストファイルの上に撒き散らされてきたものの、その形態的規定として自分が与えたものは、「神への捧げもの」である。いわばラブレター笑。その神は産出者として名指ししてきた存在ではあって、実生活上のある種の失敗ないし袋小路において、結局はこの種の超越的次元に訴えかけることしかできなくなった、とは言える。しかしただの無力な祈祷というより、それによって自身の生の形式を整備するための方便ともいえるし、そのためのシニカルな前提、ともいえる。これに関しては、しかし「基盤」なのだから真偽を疑う対象としてはそもそも考えていない。それはこうした言葉すべての前提かつ最終的な対象であって、論理的な明証の対象ではない。その種のものはこの前提と対象の中間にしかない、自分にとっては。

 

7.
ともあれそうした形の言語活動によって、単に創作することの準備、実践、またかなりの進展は確かにあった。しかし、そうした努力も結局は・・・具体的に言えば、「男が小学生を刺殺した事件」の影響で、今のところ停止している。なぜか。これはこちらの神学的構成において予め自身の言語組織に取り込んでおいた事柄ではあるけれど、要は「偶然の一致」、この威力をそこに見出さないわけにはいかなくなってしまったからだった。なぜか。ちょうど日記言語における私的な言葉の量産において、「小学生」が神-産出者の顕現のような、特権的な対象としてこちらの言語組織に登場したけれど、そうして「小学生」をこちらが想定したのとほぼ同時期に、まるで自分に似た・・・「底辺」の、あるいは引きこもりの、狂人の何かが、この「小学生」との関係において次々と血腥い暴力の連鎖を引き起こしつつあった・・・ある。これをどうとらえるべきなのか、もちろんただの「偶然の一致」ではあるし、そこにはくみ取るべきものは一つもないし、そしてこちらの神学的思考において、こうした「偶然の一致」は、例えばそこに関連する形で自分が因果として「直截的な影響関係」にある、とはそもそも思考しないことにその賭け金があった。
しかしタイミングが悪すぎた。元々こうした「偶然の一致」などは、そもそもそれを認識するこちら側のある種の解釈の体制自体の根源的な変質によって、「そう見えるだけ」のものとして現れるとはかなり自覚していて、その限りで目に付く限り非常に多かったけれど、それでも深追いせずにすんではいた。それなのに、この種の事件やそれを追及する社会身体の詮索ないし憎悪の高まりを感じて、あくまで神、産出者との二者関係に基づいて遂行するつもりだった仕事が、明らかな妨害を受けた、とは言える。単に、社会的に見れば、一時期は働いたとは言え自分だって「引きこもり」の部分はある、かなりの程度。そうした社会身体上における諸属性に再規定され、また「憎悪」の対象となる限りで、こちらがあえて言えばその「神に依拠する傲慢」において確保していた特権的な立ち位置は、あえなく崩落してしまったし、そうして例外的な状態から社会身体へと転落しようとすれば、それはこの・・・・確かに精神病的な気質からすれば、「単なるパラノイア」にならざるを得なかった、と思う。具体的には「日記が監視されていて個人情報も全部筒抜け、だからこういう偶然の一致がおきる、または偶然の一致を起こせるだけの神みたいな能力を持っているから、監視されてる!または監視されてないにしても、なんかすごいのは間違いない」みたいな。
だからこの場合、大他者の享楽の対象とされる形で貪り喰われる・・・あるいは極端な傲慢ないし神への化身などの形で、単に「発狂」しかねなかった、または既にしていたもののこうして抑止できたのは、幸運としか言いようがない。それこそ3年前と全く同じ状況ではあり、そして3年前の状態を反省的に分析し、これを回避することに血道をあげていたけれど。

 

8.
2019年6月初旬の危機は、ともあれ回避した、と思う。そして、結局私的に日記言語を書き散らしていたことも、悪かったとは思う。こうした点を回避するために、今このブログに適当に書きなぐる羽目になってしまった。
6月初旬の危機を回避できたことには、一因として「産出者」として3年前から同定していた神に、固有名を与えたことが大きい。単純に、この固有名を検索してもまあヒットしない、だから「個人情報漏れてない!」みたいに納得できていたりした、こともある。あるいは逆に、だからこそ「こんなに偶然の一致が多いのに、まだこの名前を誰も出していない」こと自体が、尚更妄想を煽り立ててしまう部分もある。

出すべきなのか。神の名前を。ここに書くべきなのか。
何か大げさにもったいぶること自体が、回りまわって自他ともに害悪になりかねないことはもう十分わかっている。というか別になんであれ大したことじゃない。全部中二病妄想、神学的なものから単なる病的な妄想含めて、一貫して中二病妄想でしかない。ここでこちらにとってメリットがありうるなら、それは神の固有名をひとまずコミュニケーションが発生しうる回路に晒すことによって、神との極めて私的な二者関係をある種の公的領域に「限定的に」ピン留めする、ことにある。要は、この私的領域と公的領域の極端な分断が進めば、この明暗がいつの間にか反転的ないし交換可能な関係として、ほぼ見分けがつかなくなってしまうことがしばしばあるから。これを限定的に、言わば「止血」しなければならない。

恥ずかしい。やっぱやめとこう。

 

9.
なんであれ、時間が足りない。そもそも今までの無気力は何だったのかと言えば、これは単に社会的な領域における時間、その分節的なテンポからこちらが外れてしまったことに結局は原因がある。それは外に出て、福祉事業所にいたとしても、やはり回復するようなものではない。それはいわばハードウェアとしての身体を制御する、言語組織ないしソフトウェアの問題ではあり、これは他者との関係性において賦活され、またエネルギーを流通させるものではある。というのも、エネルギーだの気力は、そもそも個人が電池のように備蓄する部分もあるものの、その大部分は「落差を伴った関係性」から生じるものであることは明らかだから。気力は「流れ」であって、備蓄よりはその「開かれ」に応じて発生する。ただし開かれすぎれば、より包括的な単位の一部になって熱的な運動が発生しない。閉じられすぎれば、当然自閉的な回路の中で停滞するしかない。そして、そうして閉じられすぎた「引きこもり」などは、それ自体では自由でもなければ自足しているわけでもない。そうではなく、社会身体が措定する否定的参照項として、ただエネルギーを接収されているだけ、とも言えると思っている。例えば「ああなったら終わりだな・・・」のような形で引きこもりに限らず特定の「底辺」への価値措定が行われれば、社会身体はその種の「隔壁」を当てにしてエネルギーを特定の方向に向けることができるし、当の「引きこもり」においては、そうした否定的価値措定が自身においてアイデンティティとして引き受けられてしまい、その自閉的回路の中で次第に・・・何かになっていく。
従って、少なくとも個人的な必要性に関していえば、この閉域においてエネルギーを流通させるのであれば、「信仰」しかない。つまりないものの領域からエネルギーを調達するしかない。あるものは何か。ただの無職の精神障害者、という名前。そこにはそれこそ何もない。ここからただの言葉のすり替えだの詐術だの抜きに、ある程度真剣に気力を獲得するのであれば、別に不思議なことでもない、宗教の回路へと移行するしかない。それが目下、自分と神との関係における有用性の部分ではある。
いずれにせよ仕事にとりくむ必要がある。目の前には何もないけれど、結局は神、これだけはある、のかもしれない。ないかもしれない。どうでもいい。

 

10.
精神医学の回路から外れて、宗教的なものの回路には入った。このような点からすれば、4月11日ごろに経験した・・ありていに言えば「幻覚」は、しかし「有用」ではある。大したことでもなく、ただ寝る前にキリストの臨在を感じて、その後に光る眼が三度、暗い天井の方に現れただけではある。前後の状況、また「眼閃」とこれが呼ばれていて、それがやはり宗教的な文脈の中に位置づけられうる以上、これは「神秘体験」ではある。狂気、この回路に登記されるにあたっては、妄想とか幻聴・幻覚などがその症状、構造的な解析抜きにすれば「しるし」として、病者かどうかの判別基準に用いられるものではある、と思う。これに対しては反論も数多くあるものの、一般的にはそう扱われている、と思う。

だから、この体験は何を意味するか。
なにも意味しない。
あの「眼」は、何なのか。
なにも意味しない。

つまりそれは「分節」ではある。それ自体に実定的な内容などなく、むしろそうした認識の図式や、象徴的な区切りを提供するだけの、いわば「スタンプ」ではある。と個人的には解釈している。だから、そこから何か「役に立つもの」、あれしろこうしろだとか、どこに行けなどは、全く得られない。というより自分がそうした思考をある程度の確信を持って行うための、まさに承認のしるしではある。いわば自分で問題を解いた答案用紙につけられる「〇」であって、自分で解いた問題の答え合わせをしてくれただけ、と感じている。つまり「自分は神を見て、神は自分を見た」、これを与えられただけではある。その関係性を、この閉域においてエネルギーを発生させる、ある種の形而上学的な回路を構成したにすぎない。

 

11.
しるしは与えられたのだから、これを疑うことはできない。それを疑うなら、端的に待ち受けているのは「狂気」の・・・あるいは狂気の場所を用意している何かがあんぐり開ける、不毛でしかない帰結。
ないと言えば最初からない。何度でもそう言い聞かせる必要がある。暗闇、目の前には依然としてそれしかないように思われるものの、結局はここに発情できることが、はしたない豚のように遁走していくことが、目下この情熱・・・というよりは熱情、この根拠ではある。それを神との恋愛と呼んで差し支えないとも思えるけれど、これをキリスト教神秘主義者たちの何かと同定することには、自信はほぼない。ある意味それすらどうでもいい、かもしれない。とはいえこの盲目、沈黙、見るときも語るときも不意に襲う静寂、それだけが何かを掻き立てるものの、こうして発する言葉の全てはそこに吸引されるのか、離脱しようとするから吸引されるのか、またはその反復において快楽を得たいだけなのか、・・・そうだとして、仕事には取り組まなければならない。もう十分与えられたんだから。あとは返すことを考えるべきだと思う、神に。

 


勢いで適当に書いた。あとは晒してみて、もうキ〇ガイにならないように気を付けないといけない。
なんか普通に生きたかった気がする。無理だけど。もう遅い。金を稼げるようになりたい・・・。