適当に書く場所

公開の日記

どうしよ

1.

なんにせよ、ここまで来たと感じている。

どこまで来たのか。

自分の身体を、あるいはこの、ここに何かがあると言いうるとして、このような言葉を打鍵する何かが・・・まだ人間だったと思えていた、その自尊心、これが致命的に失われた、そういう地点に、ではある。

これはただの自己卑下なのか。そうかもしれない。しかし少し度が過ぎている、と思う。それはこの半年の間に引き返しようがないほどこの身体、薄汚い肉の塊・・に刻印したので、忘れることはできない。表面的にいくら人間のフリをしても、やっぱりどこかで忘れることができない、できていない。ただしこれは3年前に、人類と宇宙のすべてを機械にしてしまったこちらの認識上の変化に由来するけれど、このような言葉を連ねること、また何らかの能動性を持ちうるのも、やっぱりこのような一撃が自分の何かを強烈に突き動かすからだと思う、その限りでこれは「忘れることができない」。

 

2.

不毛でしかない。絶えず何かが焼き尽くされていくのを感じるけれど、それは無気力、ただ椅子に座っていつものようにぐったりする時、何も考えずに壁を見つめる時、その時にも進展するものであって、今ではこれは自分が生きていることそのもので、この炎を消すことなどできない。燃える、それはその通り。ただし燃えていないものはない。だから燃えるにしても、この炎をどう扱うかの問題しか残らない。消すことなどできない、いっそ太陽と宇宙を縊り殺してやりたいけれど、震えるほど静かなもの、そうしたものは炎そのものなので、彼ら、光りうるもの全てが、燃焼されるもの全てが、運動するもの全てが単に灰になるとしても、それもまた彼らの炎であり、絶対に静かになるとしても、やっぱり炎がある。ある。だから逃げようがない、宇宙の生け贄、犠牲の獣、そうでないものはないものの、せめてそれは忘れて生きたかった、と思う。

 

3.

ともあれ身体は焼かれている、と思う。その限りで自分は常にそうだったにせよ、死体である。あるいは火あぶりに処せられる何らかの・・・。大げさに言いすぎか。ただし、3年前から常にあったところの、自分が死体であることの確信、これはどう忘れればいいのか、それは無理だと思う。何かに没頭する、人と話す、誰かに会う、それでも無理。むしろ自分が死体へと吸引されるのは、ただそうすることでしか自尊心を得られないから、と言えば割と普通の話になってしまうかもしれない。否定性の領野、ここにしか安らげる場所がない。その限りで自分はバタイユに惹かれるけれど、彼とて今の自分にとっては、・・彼だけではない、人類史に登場する全ての存在は、自分とはどこかの点で、「疎遠」になった、と思う。こうした存在について言うべきことは一つもない。

 

4.

どちらにせよ、ないと言えば最初からない。これをニヒリズムなどと言いうるとしても、「言いうる」なら、誰に言いうるのか。このような観念を、言葉を、一体誰に向けるべきか、また「どのような位置で」言うべきか、自分には皆目見当もつかない。狂気、以前はその回路があった。狂人という肩書へと意識が吸引され、言葉は近代精神医学ないし近代的主体性のフレームワークが準備した形式性の中で、確かにそれらが持っていた亀裂に寄生する形で獣のように吠え散らす、ことができる。今はできない。こうした装置とは内面的に縁を切ったからでもあるし、結局は自分が人類から断絶された・・「彼らの死体にせよ」、ただアブジェクトされたもの、ありていにいえば糞便として、うち捨てられたものの中へと避けようもなく落下していくことに原因がある、と言えばそうかもしれない。

忘れることができない。そうした汚らしさがこの世に存在することを、絶対に忘れることができない。それは無能の証ではあると思うものの、それでも・・・この身体が強烈にそうした情動へと組織化されている以上、それはブラックメタル的なものへの衝迫としてもあるものの、このような否定性へと吸引されることは、おそらく拒否するべきではない。どうしてそんなことができるのか、と思う。忘れたくともできない、何かが失敗する時、何かが乖離を示す時、何かが浮かべる卑劣さ・・・何より自分自身として認められるような「卑劣」、残忍、明らかに認められる内面の無感動、ただこうしたものを認めてしまうこの弱さ、を、忘れることはできない。だから3年前、自分が人類ならびに宇宙を単なる機械運動に還元した時、卒倒するほどの恐怖を自分に抱いたはずだった、「宇宙一傲慢で残忍な存在になった」、と。この確信は未だ払しょくされていない。たぶんもうずっとこうだと思う。

かと言って、そうした否定性へとまっしぐらに進むのであれば、どこかで失敗する。それは6月初旬で分かった。

 

5.

飽きた。